子猫の決意

その“装置”を用いたときの心地の悪さと言ったら、二度と忘れられない。
まず体が自分のもので無くなったような気分になる。四肢の自由は効かず、胴体は膨らんだり縮んだりしてまるで護謨ゴムのようだ。耳の中の圧力が急に高まり、頭痛に襲われた。
やがて体は宙に放り出されるが、浮かんでいるのか沈んでいるのか、前進しているのか後退しているのか、何か漂っている感覚はあるがその方向が定かでない。そうしているうちにも体の違和感は増し、自分の肉体の大きささえ忘れそうになる。
極め付けは、その時間だった。衛兵は「すぐです」と言ったではないか。それなのに、この時間と空間のあわいに引きずり込まれて、もう十万年も経ってしまったようだ。どこにも向かっているような感覚は無い。本当に着くのか。そんな疑念がアリーナの心をかすめた瞬間、唐突に地に足がついた。
頭をキリで貫かれているような激痛と、体を布団で巻かれるような不快な圧迫感。アリーナは思わずうめき声をあげた。その苦痛はすぐに過ぎ去り、耳の奥にある違和感だけが取り残される。
目を開け、四周を見渡す。
サントハイム側と変わらず、部屋には青い燐光が満ちている。それは足元の“装置”──旅の扉が放つものだ。石を積み重ねて作られた建物の壁には燭台が据えられ、魔法の光が室内にぼんやりとした明るさを与えている。正面の壁面にはエンドールを示す六角の牛を描いたタペストリーが掲げられていた。
「……着いた、のかな」
「で、ございましょう。お国にはあんな柄の布はかかっとりませんでしたわい」
友好国の標章を「あんな柄」と云い放ち、傍らのブライは白髯をしごいた。
「姫さま、お体に障りはございませんかな」
「うん、ちょっと耳がおかしいけど……わたしは平気。じいは?」
「儂は慣れとりますからな。何ともございません」
アリーナは、ブライの隣にいるはずのクリフトを見やる。先ほどから黙りこくっているが、大丈夫か。耳や舌を、亜空間の中に置き去りにして来てはいないか。
「クリフト、あなたは?」
「……はい」 心底気分が悪そうに、青年はいらえた。「少し胸がむかむかいたしますが……大丈夫でございます」
そして青年は、一段低くなっている石畳に、おっかなびっくり足を延ばす。平衡感覚を確かめるようにゆっくりと降り立った。旅の扉から放たれる光の所為か、いつもよりも顔色が悪く見える。
「大丈夫?」
「勿論でございます」 クリフトは頷く。「それにしても……何と言う神秘でしょう。ブライさまは何度もお使いになられているとのことですが、わたくしはこれが初めて。サントハイムの神官でも、この秘密の力を使ったものはおりません。大変名誉です」
顔色は悪いが、心持ちは元気そうである。
「姫さま、さあどうぞ」
クリフトが手を伸ばしてくれたので、それを支えにアリーナも地面に降りた。続いて老魔法使いにも手を差し出すクリフトと、「要らんわい。年寄り扱いするでないぞ」と応えるブライのやり取りを背に、鉄の金具のついた扉を押しあける。
松明の強い光が、今までの薄明に慣れた目を灼いた。思わず目を細める。
扉が不意に軽くなった。向こうから引く者があるのだ。
それは鉄の鎧を着た戦士だった。エンドールを照らす太陽を模したかのような金茶色マリーゴールドの鎧は、よく手入れされ松明の光をにぶく反射させていた。肩当てや胸当てには、彼らの出自を表す、六本の角を持つ猛牛が図案化された紋章がはめ込まれている。
旅の扉を守る衛兵は数人いた。彼らに向かって、アリーナの横に進み出たブライが声をかけた。
「こちらにおわすのは、サントハイム王国のアリーナ姫殿下である。儂はブライ、こっちの若いのはクリフトと申す」
「お待ちしておりました」 衛兵らは兜の目庇近くまで手を挙げ、恭しく敬礼をした。
彼らの中でもいちばん年かさに見える男が重ねて云った。
「ここから王都までは騎馬でも数日かかります。我が国王陛下は、アリーナさまとお連れの方には、是非我らの馬を用いていただくようにとの御意向をお持ちです」
隣国の王は、同盟国の姫が無駄な苦労をせぬように、わざわざ馬を用意してくれていた。
クリフトとブライは顔を見合わせる。
ブライが、「ありがたい」の「あ」の形に口を開こうとしたのを、アリーナの愛らしい声が先んじて制した。姫はきっぱりと云う。
「陛下のお心遣いはとても嬉しいわ。けれど、馬は使いません。徒歩で行くのでお気づかいなく」
「恐れながら、アリーナ姫さま。この辺りは人里から離れております。魔物も手ごわい輩ばかりでございます」
「だから歩きで行くんじゃないの」  と、アリーナはにっこり笑って、男に返答した。男は目を丸くする。
「こう見えても、わたしたち結構強いから大丈夫よ」
「……しかし」
「王様にお会いしたら、わたしの口からもちゃんと説明して差し上げるわ。だから、徒歩で行かせて欲しいの。お願い!」
アリーナはなおも食い下がる。
男は無精無精、承知した。ただし、と付け加える。
「本日は日暮れももう近くなっております。せめて、今晩は近隣の宿屋にご一泊を。宿までは我々がお送りいたしますゆえ」
「……送ってくれるのは助かるけど、わたしの身分は明かさないでいただける?」
「かしこまりました」
交渉は成立した。

さすが大国だけあって、エンドールの街道はこんな国境近くにあってさえも、整備が行きとどいていた。道は幅広く、また均され、騎馬や馬車の走行を妨げるような大きな石は取り除かれていた。路肩にはしばしば藪や茂みが見られるものだが、魔物を潜ませないためであろうか、それらはひとの手によって刈り取られている。また、数こそ多くはないが、道沿いには街灯が点々と据えられている。街灯などと云うものは、サントハイムでは余程大きな街道でないと設置していないことが多い。
アリーナら一行と、若い衛兵が二名。合計五騎の人馬は、旅の扉を擁する国境の砦から一本道の街道を東へたどり、小さな宿場町にたどり着いた。テンペの村よりは栄えているが、フレノールほどの規模は無い、そんな、本当に小さな町である。宿場と云っても宿は二、三軒しかなく、それらも空室がちであった。
送ってくれた兵らと別れ、荷ほどきを終えて、アリーナたちは宿屋の食堂に集合した。
「本当は夜通し歩きたいくらい。早く魔物と手合わせしたいわ。どんなに強い奴らがいるのかしら」
アリーナはそんなことを云いながら、両の拳を軽く握った。
「まあ、魔物も逃げはせんですし、武術大会にもまだ日にちがございます。不慣れな異国の夜道で迷子になるのも面倒ですからのう。今日は先方の申すとおり、休むとしましょう」
宿屋のおかみが持ってきてくれた麦酒ビールを片手にブライがとりなす。
「まあね」 肩をすくめて、アリーナは笑った。
宿屋に彼ら以外の客はいないようだった。空になった皿を下げにきたおかみに、ブライがからかい半分の言葉を投げる。
「大繁盛じゃのう」
恰幅の良いおかみは気を悪くするでもなく、ブライの言葉を笑い飛ばした。
「そうなんですよ、いつもより三人も多くお客さまがいらっしゃったからねえ。忙しい忙しい」
「また、御冗談を」
おかみの明るい様子に釣られたか、クリフトも会話に混ざる。
「冗談じゃありませんよう。最近、魔物が増えてきたもんだから、お客さんが減る一方なんですよ」
困っちゃってねえ、と、余り困った様子でも無くおかみが云った。
そんなおかみに、食堂の外から声がかかった。
「御免。誰ぞいらっしゃるかな」
中年の男の声である。
「大変」 おかみは危うく皿を取り落としそうになりながら、胡桃のような目を更にぎょろりと見開いた。「お客さまだわ。一体今日はどうしたことだろう」
そして彼女は、ばたばたと食堂を出て行く。
建物の一階を宿屋の玄関と食堂として用い、客室は上の階に設えている。それは小さな宿屋によくある作りだった。安普請なのかおかみの声が大きいのか、壁一枚隔てた食堂にも、おかみの応対の声が漏れてきていた。それを聞き流しながら、彼らは食事を終えた。小さくて狭い宿だが、食事は中々旨いものだった。
「そろそろ部屋に戻りましょう。明日は早めにここを出たいわ」
アリーナが、膝の上のナプキンを食卓テーブルの上に戻しながら云った。
「出来れば薬草の類を買い足してから町を出たいのですが」
「じゃ、朝一番にお店に寄って行きましょ」
そう云って彼女は立ち上がる。従者たちもあとに続いた。
アリーナが食堂から玄関に出ようとしたとき、食堂に入ってくる人影と肩がぶつかりかけた。姫は猫のような軽やかさで、それを避けた。相手もまた、音も無く身を引き、姫との間に十分な距離を保っていた。
「──失敬」
男の声だった。
先ほど、おかみを呼ばわったのと同じ声のようであった。
「いえ、わたしこそ」
アリーナは云いながら相手を見上げ、続く言葉を忘れた。
背の高い男であった。姫の傍らにいつもいる青年、クリフトも背が高いが、彼よりも更に大きい。陽に灼け、風に晒された、浅黒い肌。白髪の目立つ黒髪は短い。年のころは三十歳から四十歳の間と云ったところで、剛直な眉毛のすぐ下には切れ長の目があり、鷲のような鼻の下には、口ひげをたたえている。鎧こそ脱いでいるが、武人が鎧の下に着る分厚いキルティングの衣服を身につけ、腰には大振りの両刃剣ブロード・ソードが携えられていた。服は着古されていて、足元の革靴もまた相当に履きこまれたもののようだ。旅の傭兵のような風情の男だった。
無論、初めて見た男である。
だが、アリーナは不思議な感覚を覚えた。
それは、感覚と云うよりは、感情であった。旧知の人に思いがけぬ場所で遭ったような慕わしさを、姫は目の前の中年男に対して感じた。
中年男もまた、アリーナの柘榴石ガーネット色の瞳を凝視したまま、しばし動きを止めた。
時間にしてものの数秒。
「……失礼した。ご婦人に対して不躾な視線を送ってしまった」
男は居住まいを正し、アリーナの目を凝視するのを止めた。
「探している人かと思ったのだが、人違いだったようだ」
男は云う。
聞き咎めたのは、ブライだった。
「“探している”?」
「そうだ。ただ、女性では無さそうでな。人違いだ。失礼した」
男はアリーナの傍から離れた。音も無く移動して、空いている食卓の前の椅子に腰掛ける。
「どんなひとを探してるの?」
アリーナは思わず声をかけた。
「姫さま」 クリフトが小声で制したが、アリーナは構わず言葉を続けた。
「わたしたち、明日からエンドールのお城に行くの。たくさん人が集まっている街だから、あなたの探しているひとがいるかも」
食卓の向こうで、男は薄く笑って首を横に振った。
「御厚情はかたじけないが、おれも顔を知らんのだ」

「変なひとでしたね。顔も知らない誰かを探しているなんて」
姫と従者が互いの部屋に戻る間、クリフトがぽつりと云った。
「恐らく、バトランドの何らかの組織に属しているものじゃろう」 とブライが云う。「腰にぶら下げとった剣の鞘に、かの国の双頭の鷲の紋章が描かれておった。だいぶ掠れとったが、随分丁寧に手入れしてあった。盗品じゃあなさそうじゃった」
「バトランド……。随分と遠いところからいらしたんですね。しかもひとりで。……もしかして、隠密スパイでしょうか」
「隠密があんなに堂々と国の紋章をぶら下げるものか」
「あ、それはそうですね」
姫は彼らのやり取りを聞いていたが、口を開いた。
「……あのひと、すごく強いと思う」
「……何故お解りになるのです?」
「身のこなしが、全然違った。サントハイムの兵隊にも、あんなひといなかったわ」
アリーナは掌に汗をかいていた。
そのくらい、先ほど邂逅した男の印象が強烈だったのだ。
「悔しいけれど、わたしよりもずっとずっと強いと思う」
「……もしかすると、バトランドの王宮戦士かも知れませぬなあ」
「王宮戦士?」
「姫は御存じありませんかな。バトランドは小国なれど、かの国の陸軍力は大国エンドールやブランカをもしのぐことを」
「聞いたことがあるわ」
「そのバトランド軍の中でも最上位の兵が、王宮戦士ですじゃ。誇り高く精強な、バトランドの象徴とも云えるべき存在でございます。かの国では、一騎当千とは、彼らのためにあるような言葉だそうな」
「……かもしれないね。本当のところは解らないけど。でも、あのひとは本当に強いと思う」
姫は頷く。
不意に周りが暗くなった。壁の燭台の蝋燭が、一本消えたのだ。
「……おやすみ」
「おやすみなさいませ」
「よくお休みなされよ、姫さま」
と、姫と従者は互いに声をかけあって、部屋に引き取った。
アリーナは、ひとりきりになった。
そうなると、先ほどの光景がまた強く思い出された。目の前に立った男は、アリーナの視界に入るまで、完全に気配を消していた。
そして、彼女の傍を離れて席に着くまでの間、古い宿屋の床板は、きしみもしなかった。あんな大男が移動していると云うのに、だ。
(すごい。世の中には、あんなに強いひとがまだまだいるんだ。わたしも負けてられないわ)
アリーナはまだ興奮していた。男の静かな、しかし確固とした佇まい。その中に潜む、武の達人だけが持つ気配を、同じく武を志すアリーナだけは、鋭敏に感じ取ることが出来たのだ。
(すこし、話がしてみたいな)
姫の中の好奇心が、鎌首をもたげる。
(すこしだけ、すこしだけ……)
そうなると姫は止まらない。閉めた扉を再び開け、廊下の様子をうかがった。ブライとクリフトの部屋からは、灯りと談笑が漏れている。アリーナはさっと身を翻し、廊下に出た。扉を音がせぬようにゆっくりと閉めると、抜き足差し足で、今来た道を取って返した。
階段を降りると、宿屋の帳場にはおかみではなく主人が座っていた。彼はアリーナを見ると、少し笑って目礼した。そこにいたのがおかみでなくて、アリーナは安堵した。客室の連れにまで聞こえるような声で、「あらお嬢さまどうかなさいましたか?」などとやられたら面倒くさい。
アリーナは食堂に向かった。宿の玄関の照明はだいぶ落とされていたが、食堂は先ほどと変わらなかった。先ほどの男がまだいるに違いないと思い定めて中をのぞいてみれば、果たして男がいた。
「……こんばんわ」
アリーナは歩きながら、男に声をかけた。
男も会釈を返してきた。手には蒸留酒ブランデーの入ったグラスがある。
「座っても良いかしら?」
「ああ、どうぞ」
男は親切に椅子をひいてくれた。アリーナはちょこんとそこに腰掛け、改めてまじまじと男の様子を観察した。
見れば見るほど、手練の男であることが分かった。節くれだった手や頑健な肩、上腕は、剣に精励する者独特の形状をしている。
「わたし、アリーナと云います。よろしく」
アリーナは右手を差し出した。
男もやはり同じように右手を差し出した。二人は握手を交わす。男の掌には剣の柄で出来たのであろう胼胝たこがあった。
「私はライアンと申す。バトランド国に仕えているものだ」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「いえ、ブライが──」 アリーナは云い直した。「連れの者が、恐らくそうだろうって。鞘にバトランドの紋章があったからって」
「お連れの御老人か? 目ざといな」 と、ライアンは云った。
「ブライは物知りなの。──それよりも、さっきの続きなんだけど……顔も知らないひとを探してるのに、わたしのことをそのひとを間違えたって云ってたわよね? 何だか変に聞こえるんだけど」
「言葉にすると難しい」
ライアンは真面目くさって云った。
「何と云うかな──。気配が、そのように見えたので」
「気配?」
「気配と云うのもまた、少しばかり違うのだが……すまぬな。学が無いので、良い言葉が見当たらん。ただ、何となくそのように見えたと云うだけだ」
「一体誰を探しているの?」
アリーナは尋ねる。
ライアンはしばし、黙した。
ややあって、彼は云った。
「──お告げの勇者を」
その言葉の響きはまるで寓話めいていたが、ライアンが発すると不思議とそらぞらしさが消えた。
「もう幾年になるかな。私は彼を探して、世界中を旅している」
「……雲を掴むみたいなお話ね」
「そうだな」 ライアンは笑った。「よく掴んでいるよ。さっきも掴んだ」
「わたしのこと?」
と、釣られてアリーナも笑う。
「おぬしの瞳の輝き、全身に纏う清廉な気は、私が思い描いていた勇者の持つものだと思ったのだが」
「残念だったわね。わたしは勇者じゃないわ」
「さようか」
ライアンは、本当にすこし残念そうに見えた。
狭雲月ろくがつの半ばに、エンドールで開かれる武術大会に出るの。それで、お城に向かっているの」
「ぶじゅつたいかい」 ライアンは目を丸くした。
「わたし、強くなりたいの。あなたみたいに。どうやったら、強くなれる?」
アリーナは問う。
しばし、沈黙が落ちた。気づけば、食堂の中は先ほどよりも薄暗くなっている。宿の主人が照明を落としたのだろう。ゆらゆら揺れる蝋燭の炎を映して、ライアンの瞳にも光と影が交互に差した。
「……なぜ私に尋ねる?」
「あなた、強いもの」
姫はきっぱりと答えた。
ライアンは口ひげを撫でた。
「どうやって剣の修業をしているの? 実戦は? どんな魔物を倒して来たの?」
アリーナは重ねて問うた。ライアンは苦笑した。
「もう忘れてしまった。あまりにたくさんの魔物を屠ってきたゆえな」
「やっぱり、魔物と戦うのがいちばん手っ取り早い?」
「殺生など、せずに越したことは無い」
男は寡黙な性質のようだった。ひとことひとことは短く、簡潔だった。
「ただ繰り返すのみだ」
男は付け加えるように云って、手元のグラスにたゆたう酒精アルコールを口に付けた。グラスは空になり、ちびた氷の塊が寂しげな音を立てた。
「明日は早いので失礼する」
ライアンが立ち上がる。
「──待って」
アリーナは思わず声をかけた。
ライアンはそれに応えて動きを止める。男と姫の視線が交わる。心の奥深く、脳の底が共鳴しているような、不思議な感覚。先ほど、初めて相まみえた時のようなそれが、再び蘇る。何だろう、これは。
これはえにしと云うものだろうか。
しばし二人は無言であった。
「……また会いましょう、いつか、何処かで」
唇の端に笑みを浮かべ、アリーナは云った。
男も頷いた。
「そうだな。いつか、何処かで」
「その時は、手合わせしてね」
「ああ、その時はな」
男は去った。
相変わらず、滑るように立ち歩く男だった。腰の位置が全く縦ぶれしていない。万が一のことが有らば、いつでも剣を抜ける。そんな体勢だった。酒精を体に含んでいてなお、それだ。アリーナは内心で舌を巻く。
(すごい。本当にすごい。普通に動いてるのに、一部の隙も無い)
だが、決して彼に呑まれたとは思わなかった。
(わたしだって、いつかは)
アリーナは食堂を出た。帳場にいた、宿の主人の姿は無い。知らぬうちに、とっくに夜半を過ぎていたのだった。
宿の玄関の壁に、大きな姿見がある。それに己の姿を映し、アリーナは拳を構えた。
腕は細く、脚も頼りない。
(もっと体を鍛えないと。筋を強く、しなやかに。一撃で敵を倒せるように)
ヒュッ、と云う小気味良い音と共に、彼女の右足が空を蹴る。まるで鞭のように速く、なめらかに。
それは、見るべきものが見れば、嘆息交じりに称賛さえするであろう身のこなしだった。姫はいつの間にか、強くなりつつあった。城を出たころよりも、一回りも二回りも成長していた。
だが。
(全然足りない。わたしはもっと、もっと、強くなる)
鏡の向こうの己が、己を鼓舞する。
「よし、やるぞー!」
姫は小声で、けれど覇気のこもった声で、呟いた。

その凛とした決意を聞いたのは、古びた宿屋の、壁と床。

 


個人サイトから移管したドラクエ4の小説です。2010年ごろ初出。pixivに2021年5月に掲載。
以下は更新報告のブログから。


さてさて、久しぶりに小説を書きました。
実に2年ぶりでした。
書きたい書きたいと思っていたけれど、「何か」書きたいだけで、「何を」書きたいのか、全然見つけられなかったこの2年間。
文章のちからも、すこし落ちてしまったし、何が云いたいのかよくわからないお話になってしまったけど。
書けてほっとしています。
冒険者たちがすれ違うお話が書きたくなったのです。
そしたら、アリーナのスポ根な一面が垣間見れるお話になっちゃいました。
基本、アリーナは強い人がだいすきだとおもいます。