虎も喰わない

彼女たちの雇い主であるところの女性は、冷静沈着を以て旨とし、彼女たちの職場でどんなトラブルが起ころうとも顔色ひとつ変えぬのが常であった。
彼女たちの職場はいわゆる酒場だったが、酔客同士の喧嘩も、超繁忙によるキッチンやパントリーの殺伐とした空気も、モンスタークレーマーの言いがかりも、雇い主にかかれば全て瑣事に過ぎず、気が付けば雇い主がさらりと解決しているのであった。彼女たちは、それをオーナーズマジックと密かに呼んでいた。
「ねぇサリー、サラミとかの発注漏れてない?」
出勤早々、タブレットを手にした雇い主に声をかけられ、「彼女たち」のひとり……サリーはあっと声を上げた。昨日、Wi-Fiの調子が悪くて後回しにしていたのを、すっかり忘れて帰宅してしまったのだ。
「すみません、忘れてました……」
「これからコストコ行ける? 他にもいくつか頼みたいものがあるのよ」
「すぐ行ってきます」
「じゃ、これ」
手渡されたメモ紙には、雇い主の洒脱な筆跡で買い物リストがしたためられてあった。サリーはそれと店の経費用のクレジットカードを受け取り、雇い主に見送られて店を出る。今日もオーナーズマジックは健在だわ、と思いながら。
首尾よく買い出しを済ませて店に戻ると、同僚で双子の姉妹のエリザベスが迎えてくれた。
「おかえり」
店内を見渡すと、開店準備も大詰めと言った様子だ。エリザベスはモップで床を磨いていたが、それもそろそろ終わりのようだ。ミニスカートの制服から伸びるすらりとした脚が、モップとワルツを踊っているようだった。
「ただいま。掃除任せちゃってごめん」
「いいよ、そのくらい。着替えておいでよ」
促されてロッカールームに行くと、雇い主もそこで身支度をしていた。パリッと糊の効いたウィングカラーシャツにスリムフィットのカマーベストを重ね、同色のスラックスはセンターに1ミリのズレもないプレスが当てられている。耳元で揺れる青いクリスタルのピアスはあくまで上品で、彼女の瞳の色とよく調和していた。
雇い主が鏡を覗き込み、化粧を整える様子がいつもより丁寧であることにサリーは気がついた。雇い主の美貌はいついかなる時でも変わらないが、今日の彼女からは内心の高揚が伝わってきた。少なくとも、長い付き合いのサリーには。
「今日は特別なお客さんが来る日ですか?」
制服に袖を通しながらサリーは尋ねる。雇い主は鏡越しにサリーを見た。そして低い声で、
「そんな客、いないわよ」
と答えた。だが、その否定の言葉は彼女が咄嗟についた嘘だと言うことが、サリーには手に取るようにわかった。
開店時間が迫っていたので、サリーはそこで会話を打ち切らねばならなかった。彼女は自分のメイク崩れをチェックするために雇い主の傍らに立ち、鏡の中の雇い主を見た。
「そうですかあ」
「そうだよ」
「じゃ、私、行きますね、キングさん。カードお返ししときます」
サリーはそう言いながら、借りていたクレジットカードをキングのスラックスのヒップポケットに突っ込んだ。雇い主は「私だって行くよ」と答えながらカードを引き抜き、カマーベストのポケットに入れた。
その日はそれっきり、店がバタバタと忙しかったがために、キングと私的な話をする暇は無かった。

──そう言えばリョウさん来なかったな、来ると思ったんだけど。

それゆえ、サリーが寝る直前のベッドの中でそれに思いあたったのはほとんど奇跡に近いくらいの出来事だった。そのくらい、本当に多忙な一日だった。

それから数日後。
朝から晴れ渡り、湿度も雨量も一気に減って、ぐっと過ごしやすくなるサウスタウンの10月らしい爽やかな日だった。サリーとエリザベスが働くバー「イリュージョン」では、こんな日はみんなビールが恋しくなるのか、ワインよりもビールがよく出た。サリーもエリザベスもトレンチにワイングラスを並べるよりもジョッキを両手で持ち歩くことの方が多く、久しぶりに手のひらが疲れた。
店の中はいつも通り客で溢れ、主にホールを受け持つサリーとエリザベスはひっきりなしにオーダーを告げる客に呼び止められていた。
バー「イリュージョン」は、立地の良さとワインとカクテルの品揃えの良さが相俟って常に満員御礼だが、彼女たちの愛想の良さも人気の理由の一つかもしれなかった。そして、カウンターの奥で忙しそうに立ち働くオーナー兼、バーテンダー(兼、バウンサー)の気風の良さも、だ。
カウンター席にも客が鈴なりに並んでいて、それもまたこの店のいつもの眺めだった。店主がシェイカーを振り、カクテルをステアする洗練された仕草を好む客は多く、彼女の軽妙で距離感を心得た話術を楽しみにしている者も数多居た。そしてまた彼らの中の何人かは独身の彼女に興味を抱いており、しかしながら彼女の操る脚技の鋭さの評判を知るがゆえに一介の客と言う立場を守っている、と言ったような連中だった。
そろそろラストオーダーという時間になっても、まだ客席は半分近く埋まっている。双子も心地よい疲れを感じつつ、クローズに向けて少しずつ準備を進めていた、そんな頃合いだった。
カラン、というドアベルの音が新しい客の訪れを告げた。
「いらっしゃいませー」
エリザベスが声をかけながら振り返ると、そこにはよく見知った常連客、と言うより店主の友人の姿があった。同じような上背の筋肉質の男が2人。リョウとロバートだった。
「空いてるとこ、どこでもどうぞ」
エリザベスの言葉に2人はうなずき、店主が陣取るカウンターに並んで腰掛けた。
「いらっしゃい」
キングが、カクテルを作りながら愛想の無い声で言う。
「悪いなぁ閉店間際に。一杯飲んでってええかな?」
「お好きに」
「ほな、ワイはバローロ。グラスでええ? ボトルにせなあかん? それに何か…しょっぱいチーズでも貰おうかな」
「グラスで出せるわよ」
言いながらキングは、「王のワイン」と称えられる銘酒をグラスに注ぎ、ロバートの前に滑らせるようにして供した。グラツィエ、と郷里の言葉で礼を言いながらロバートはそれを受け取り、傍の相棒を見た。
「お前は何にすんのや」
「そうだなぁ…」
リョウはキングの背後に並ぶ酒瓶を見定めるように眺めながら言う。いつもなら店主が様々な銘柄を蘊蓄と共に推薦してくれ、リョウはそれを聞くのを楽しみにしていたが、今日は何故かそれがなかった。それどころか、彼女はカウンターから出て他の客との会話に混ざっている。
「お決まりならお伺いしますけど」
「じゃあ……サムアダムス」
サリーが話しかけると、リョウは少し迷っていた様子だったが、ビールの銘柄を告げた。
「16オンスで良いですか?」
「ああ」
リョウは頷いた。
「イリュージョン」は都度払い制なのだが、客によっては後払いも受ける。リョウやロバートが来る時はたいてい後払いだった。ロバートは後払いの会計の時に乗せるチップとは別に、オーダーされたものを持っていくとチップをくれる時も多々あって、サリーはこのハンサムでブルジョワな雇い主の友人に好印象を持っていた。雇い主が好意を寄せているらしき、もうひとりの友人よりも。むしろ、雇い主がなぜロバートではなくリョウに惹かれているのか、理解し難さすら覚えている。ハンサムな金持ちとただのハンサムなら、ハンサムな金持ちの方が良いではないか。一般的には。
「お待たせしました」
16オンスのジョッキをリョウの席の前に置くと、リョウはありがとうと朗らかな笑顔を見せる。いつもならキングが彼の相手をするのだが、今日はロバートにワインを出して以来彼らの席のそばには寄りつかない。その不自然さの理由にサリーは何となく思い当たる節があった。何日か前、いつもより丁寧に、より美しく化粧を直していたキングの横顔と、気持ちの高まりを努めて覆い隠そうとしていた彼女の様子が、自然と思い出された。
「今日も忙しそうだな」
「あー、そうですね」
「キングも、ずっと忙しそうだ。早めにお暇するよ」
「えっ、帰っちゃうんですか」
「あんまり長居したら邪魔だろう?」
リョウは、今日の昼間の空みたいな色の瞳に、善意だけを込めて言った。
もしかすると自分が感じていた店主の態度への違和感は、本当にただの気のせいかもしれない。そんな風に思ってしまうほど、リョウには何の屈託もなかった。
いやしかし、ならばキングがあんな風になる訳はないのだ。きっと何かがあったのだろう。もしかしたらリョウは気付いていないかもしれない。それは大いにありうることだと、サリーは思う。この、やたらと人柄の良い常連客は、しかし傍観者の自分にさえすぐに察せられた店主の機微に、驚くほど鈍感だからだ。
「勿論すぐには帰らないさ」
リョウはロバートのワイングラスに己がジョッキを近づけ、乾杯、と呟くように言う。
そんな2人をずっと眺めていられるほど、今日の店は暇ではない。サリーは別の客に声をかけられ、それに応えた。

喧騒はいつまでも果てがなく続きそうに思われたが、それでも日付の変わる頃にはほとんどの客が店を去っていた。サウスタウンの「健全な」飲食店は、だいたいそのくらいの刻限に店を閉めるのが普通だからだ。イリュージョンもそろそろ閉店の時間である。
早く帰ると言った割になんだかんだとその時間まで居残っていたリョウとロバートが、店主に言う。
「キング、そろそろ帰るで」
「ああ、ありがとう」
続けてロバートはサリーを呼び、カウンターの上に黒いクレジットカードを滑らせた。
その傍らのリョウが、履いているデニムのヒップポケットから皺の入ったドル紙幣を数枚カウンターの上に並べる。
「これ、俺の分。足りるか?」
問われたキングはそれを一瞥して言った。
「足りてなければロバートが払ってくれるんでしょ?」
「そんなわけないだろ」
「あら、そうなの。意外」
棘のある口調にさすがのリョウも眉間に皺を寄せた。
「大の男を、友達に奢ってもらうのが当たり前に思ってるみたいに言わないでくれよ」
店主は秀麗な顔をぴくりとも崩さず、客の抗議に言い返す。
「てっきりそう思ってるのかと思ってた」
「今日、なんでそんなに機嫌悪いんだ? さっきから感じ悪いぞ、キング」
さすがの彼も思うところあったらしく、リョウの、酔いを含んで上気した頬に、かすかにそれとは違う理由で赤みがさした。2人の目線が、カウンターの上で非友好的に交錯する。
「リョウ、やめーや」
有事の匂いを嗅ぎ取ってロバートがとりなした。こういう時は優れたビジネスマンのバランス感覚が物を言う。
「そうですよ、キングさんも」
ロバートのクレジットカードで彼の分の会計を済ませ、カウンターに戻ってきたサリーも、雇い主に言った。だが彼女はそれには直接応えず、ただ唇を尖らせた。
「私は、別に。何も変わらないけど。いつもと」
と、どう見てもそうは見えない様子で答える。
「そんなことないだろ? 俺、何かしたか? はっきり言ってくれ」
「何も無いって」
「じゃあお前は俺のことを本気で、金持ちの友達に平気な顔で奢られてる男だと思ってるのか?」
いつも穏やかな彼にしては珍しく、少し興奮した口調でリョウは言った。表情には落胆の色があった。
「………」
キングの表情に困惑が浮かんだ。悩ましげに顰められた眉宇と、彼女の内心の不満を映しだして尖る艶やかな唇は、事態の行く末と相反し、彼女の美貌に色気を添えていた。オーナー綺麗だなぁ、とサリーは我知らずそんな感想を抱いた。
「お前にはそんなこと思われたくないよ。冗談でも」
リョウはすこし声の大きさを落として続ける。すぐに気持ちを落ち着けられるのは彼らしかったが、それでも当惑は隠せない声音だった。
「そんなこと…思ってない」
キングはそう言った。
「じゃあ、何だよ? 教えてくれないか。悪いが、さっぱり分からないんだ」
リョウの言葉に、キングの表情があからさまに曇った。
「……分かるまで、教えない! 今日はもう看板!」
キングはそう言って、リョウの眼前のカウンターにレシートと釣り銭を置いた。2ドル、35セント。そしてそれきり、ワイングラス磨きに没頭した。オーナー女の子だなぁ、とサリーは、またしても我知らずそんな感想を、抱いた。

前夜の多忙と、閉店間際のちょっとしたアクシデントのおかげで、数日前に続いて乾き物の発注を忘れたサリーだった。雇い主にそれを指摘されて買い出しに走ったが、時間が無かったので少し遠いコストコではなく、通りを3つ隔てたところにある個人商店に行くことにした。紙袋いっぱいに今日と明日の分はなんとかまかなえそうな量のナッツや胡桃を詰めてもらい帰路に着いた。
サウスタウンは今日も好天で、乾いた気持ちの良い秋の風がサリーの頬を撫でた。
メインの大通りから1本奥に入ったところにある「イリュージョン」は、店主が自ら買い付けたマホガニーの大きなドアが目印だ。歩道から少し奥まったところにわざと入り口をもうけているのが、いかにも大人の酒場と言うしつらえだった。従業員用の出入り口があることはあるが、重たい紙袋を、パントリーではなくてカウンターに運び込みたかったので、サリーはあえて正面ドアに向かった。
仕入れた食料が満載の紙袋を両手で抱えたまま、どうやって重たいドアを開けるか。その難問を頭の中でこねくり回しながらサリーがドアの前に立つと、店の中からドアノブが回された。やがて中から出てきたのは店主の友人だった。
「リョウさん」
「ああ、えーと、…サリー」
「当たりです」
双子の姉妹はお互いがあまりに似ているので、しばしば片われに間違えられるが、リョウにはあまり間違えられたことがなかった。彼女たちの知己の中にはとりあえずどちらにも「サリー」と呼びかけることにしている手合いも少なからずいるようだが、彼はそう言うことをするタイプの人間ではないので、おそらくそれなりに見分けがついているのだろう。
「すごい荷物じゃないか」
そう言いながら、リョウはサリーが店の中に入るまで、ドアを支えてくれた。
「ありがとうございます」
「お安い御用だ。またな」
リョウは人懐こい笑顔を見せると、雑踏に紛れた。がっしりと筋肉をまとった肩と背中のごつごつとした線が、Tシャツごしにも見てとれた。サリーはその後ろ姿を見送り、ドアを閉めた。
重たい荷物を置くべくカウンターに目をやると、その端の方でサリーの雇い主が装花をモダンなデザインの花瓶に生けていた。
「キングさん、すみませんでした〜」
「いいわよ。でもあのあとトニックウォーターも足りないことが分かって、リズにも買い物に行ってもらっちゃった。自分たちで買いに行くと荷物重いし大変だから、なるべく発注漏れしないように気を付けて」
「えー! ほんとごめんなさい! 気を付けます!」
道理で、サリーの分まで開店準備に奔走しているはずのエリザベスの姿が見えないはずだった。
「キングさんひとりに準備させちゃってごめんなさい」
「良いわよ。元々遅れてるの」
キングは言う。
「リョウさんが来たからですか? 仲直りできました?」
あっけらかんと問うサリーの言葉に、キングはフラワーアレンジメントの手を止めた。
「…そもそも喧嘩なんてしてない」
「いやいや、昨夜、結構しっかりめに喧嘩してたじゃないですか。あんなリョウさん、初めて見ましたよ。仲直りできたんですよね? 良かったですね」
サリーが言うと、キングの白皙の頬に朱が差した。
「早く準備進めてね」
早口でそう言い残し、カウンターの上に切った茎やら園芸鋏やらを置き去りにして、キングはその場を立ち去る。
開店前の誰もいない店で、一体どんな顔で、どんな話をしたのだろう。サリーの好奇心は尽きなかったが、これ以上野暮なことをあれやこれやと尋ねても、自分の失敗を2度も水に流してくれた雇い主の恩を仇で返すだけだったので、深追いはやめた。
店主に取り残された道具たちは、どこか所在無げだった。果たして開店までにこれは店主が片付けるのだろうか。そうならなかった時のために、サリーは頭の中のTO DO リストに一つ項目を加えた。

彼らのいさかいなど、犬どころか、虎も食わない。

 

fin.


Xの相互フォロワーさんから「相手に怒ることがあるとすればどんな時なのか?」を見てみたいとのお言葉をいただき、ウンウン唸りながら考えました。自分にとって相手が特別であればあるほど、相手に期待をしたり、こう見られたいと言う気持ちが芽生えたりしてしまうのではなかろうかと思います。15の世界線にサリーとエリザベスがいるかどうか確認はできなかったけど、KOF15の後くらいを想定して、KOF世界で自由に書きました。素敵なアイデアをありがとうございました!(2023.9.22 当サイトに直接アップ)