Just in love

湾岸沿いの街はすでに目覚めていた。港湾ではフェリーや貨物船がエンジンの音を響かせながら出港し始めており、蜘蛛の糸のように地上をめぐる道路にも徐々に車の数が増え始めていた。
元々、東京は不夜城だけれども、そんな街にも夜と朝の境目はあり、今はすでに朝が優勢の時間帯だった。
朝日に照らされ、東京湾を見下ろすように建てられた高層ホテルの客室の窓という窓が、きらめいている。
早朝のホテルのロビーには、他の時間帯以上に様々な人が訪れる。大事な商談を控えているように見えるスリーピースを着こなしたビジネスマンもいれば、観光スポットに向かうであろうリラックスした装いの夫婦もいる。
そんな中、レザーのライダースジャケットを羽織り、大きめのバックパックを背負ったリョウ・サカザキは、出立の準備が整ったチェックアウト客にしか見えず、事実、彼は今まさにそうしようとしていた。
カウンターの奥に立つホテルのスタッフはてきぱきと精算を終え、心からの笑顔を見せた。
「ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
そう言って、精算書を封筒に入れて丁重に差し出す。無駄のない、見ていて気持ちの良い仕事ぶりだった。
「ありがとう」
リョウは笑みを浮かべながらそれを受け取ってデニムのヒップポケットに突っ込むと、フロアに置いたバックパックのショルダーストラップを掴み、担いだ。訪れる人々に等しく寛ぎをもたらすかのような、落ち着いた色調の壁と高い天井を背にして、彼を待つ家族や友人のもとへ歩む。足元のカーペットが沈んだ。
ロバートも、ユリも、キングもタクマも、皆それぞれ旅の荷物を携えてその場に立っていた。しばし滞在した東京湾を見下ろすホテルから、みな揃って帰路に着くところだった。
高層階のロビーから、ホテルのエントランスへ向かうエレベーターの中で、ユリが口を開いた。
「キングさん、ほんとに私たちと一緒に来ないの?」
ロバートとユリは、ガルシア財団が所有するプライベートジェットで羽田からミラノのマルペンサ空港まで向かうのだった。同じヨーロッパ方面なのだから一緒に来ればいい。ユリはそう、年上の友人を誘ったが、キングは「ヒースローに直行便で帰りたい」と、それを断っていた。改めて問われ、それでもキングは同じ答えを返した。
「ミラノからロンドンも、そんなに近くないから、直行便で帰るよ。せっかくビジネスクラスだしね」
BURIKI-ONEのゲスト用の航空券は、確かにビジネスクラスのオープンチケットだった。プライベートジェットほどではなかろうが、エコノミークラスよりはだいぶ快適な空の旅であろうことは予想に難くなかった。
「残念」
ユリが不服そうに唇を尖らせたとき、エレベーターがちょうど地上に着いた。
「じゃあ、私たち、ハイヤーが来てるからここでお別れ! またね、キングさん!」
ユリが名残惜しげにキングにハグを求める。キングは笑ってハグを返し、次いでロバートとも握手を交わした。
「ロバートも元気で」
「キングもな。商売繁盛、祈ってるで」
次いで、リョウがロバートに握手を求める。
「ロバート、またな」
「リョウ、今回はおめでとう。ワイも負けられへん。お前のこと見とったらなんや悔しゅうなって来たわ。ワイも精進せんとな」
そして親友同士、お互いの肩を叩き合う。
タクマとも別れの挨拶を交わし、ロバートとユリは車寄せに停車していたハイヤーに乗り込んだ。磨き上げられた黒い車体が走り去るのを見送り、残された3人はホテルを出た。
3月の東京らしい、薄曇りの天気だった。まだ朝早い時間帯だからか、風は冬の残滓をはらんでいるかのように冷たく、また、強くもあった。ただ、元から強風なのか、それとも高層ビルの隙間を駆け巡るビル風なのかは判然としなかった。
3人はホテルの目の前の駅ではなく、徒歩圏内のターミナル駅に向けて歩き出したが、終始、黙りがちだった。元々彼らはいずれも多弁な方ではなかったし、慣れない異国の交通を把握するのに手間取っているせいもあった。
年度末の平日朝のビジネス街は、呆れるほど多くの人々がせかせかと行き交っている。チャコールグレーやベージュ、ネイビーと言った、ベーシックな色合いの春のコートを着ているビジネスパーソンの姿が多かった。彼らはみな無言で、どことなく憂鬱そうに見えた。
そんな人々に混じってたどり着いた新橋駅の改札の前で、上背があり、髪の色も色とりどりのタクマとリョウとキングはとても目立った。
立ち止まり、タクマが言う。
「キング、リョウには言ったが、私はもうしばらく日本に残る。だからここでお別れだ」
「そうなの?」
初耳だったので、キングは驚いた。タクマは答える。
「しばらく親戚の家を回ることにした。そんなにちょくちょく日本に来れないだろうからな」
「そう…。じゃあ、元気で」
タクマとキングは握手を交わす。頑健で分厚い手のひらの主は、息子によく似た太い眉毛の下の目を細めた。
そしてタクマは息子に、キングには分からない言葉でふたこと、みこと話しかけ、リョウは笑顔で何かを答えた。
そのまま、タクマは少し古びた旅行鞄と共に、改札とは反対方向へ去る。タクシー乗り場の方へ向かう父を見送り、リョウが振り返った。
「行くか」
青い瞳が笑っていた。
「うん」
キングは頷いて、キャリーバッグのハンドルを握る。
リョウが自分の分と一緒に買って、手渡してくれた電車の切符に書かれている文字を、キングは数字以外何一つ読めない。彼がいなければ、切符の購入でさえ相当苦労していたはずだった。事実、成田空港から東京都心までやってきた時も、大会の運営会社の案内レターだけが頼りだった。それが無ければホテルへ辿り着けなかったかもしれない。
「運賃、払うよ」
キングは言うが、
「いいさ」
と、リョウは首を横に振る。
「でも、悪いし」
「大した金額じゃないから大丈夫だ」
「でも」
「気にするな」
しばらく押し問答になったが、キングが折れた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「そろそろ電車に乗ろう。大丈夫か?」
「水、買ってくる」
そう言って彼女は、そばのキオスクに向かった。リョウは、そのすらりとした後ろ姿を見送る。ヴィンテージの、誰もが知るチェック柄を裏地に配したコットンギャバジンのトレンチコートをゆったりと羽織り、黒いカシミヤのニットとジョガーパンツ、白いレザースニーカーを合わせ、コートと同じようにほどよく使い込まれたショルダーバッグを斜めがけにしていた。
今までは彼女の店で会うことばかりだったから、仕事着の彼女と顔を合わせるのが常だった。そんなリョウにとって、キングの私服は新鮮に映る。この数日、多くの時間を過ごし、共に街を歩いたが、彼女はいつも洗練された、けれども気負い過ぎない装いをしていた。リョウにはファッションのことはよく分からないけれども、彼女が常にシックだと言うことはよく分かった。
キングとすれ違う人が、みな等しく彼女に目を奪われる様子を、リョウは少し誇らしいような、反対に面映いような、不思議な気分で眺めていた。そんな彼のところに戻ってきたキングの手には、エビアンのペットボトルが2本あった。
「切符のお返し」
言いながら彼女は1本をリョウに手渡す。彼は礼を言い、受け取る。
「行こうか」
2人は改札を通った。
忙しく行き交う人波に流されないように歩きながら、目的の電車のホームに向かう。
この旅の最中に何度か乗る機会があってキングもその名を覚えた山手線に乗り込み、数駅で乗り換える。
オレンジで塗装された空港行きの特急列車は程なくやってきた。指定席に2人並んで座る。動き出した特急列車の大きな窓の向こうに東京の高層ビル群が姿を見せ、しかしそれらはやがて高層ではないビルと住宅が立ち並ぶ眺めになった。
彼らは東京を去ろうとしていた。
電車の中は静かだった。停車駅のアナウンスと、電車の走行音だけが繰り返し繰り返し響いた。
車窓からは、満開のソメイヨシノがそこかしこに咲き誇っているのが見えた。黒い幹と梢に綿菓子のように乗った薄い桜色の花々は、ともすれば空に溶け込んでいきそうに見えた。今年の桜は見納めだな、とリョウは思う。彼の住む街がある州にも、少しだけソメイヨシノの名所はあり、彼は何年かに一度は桜を見ていたが、今年ほどあちこちで桜を見た年は無かった。
快適な空調と、単調な揺れに誘われたか、キングのまぶたが少し重たげになっていることにリョウは気づいた。
「眠かったら寝たらいい。まだ時間がかかるから」
「寝たくない」
キングは眠たそうに、しかし頑固に、首を横に振る。
「話してたい」
「そうか」
リョウは答え、ならばと話題を探す。
「何時の便だったっけ」
「10時」
「ギリギリだな」
彼の腕時計が示す時間から計算すると、空港でゆっくりしている時間は無さそうだった。
「リョウは?」
「5時だ。夕方の」
「もっとゆっくりしてれば良かったのに」
「もう充分ゆっくりしたさ。1人で居残ってもしょうがないだろ」
リョウは笑う。
キングは本当に眠たそうだった。懸命に睡魔に抗っている様子だったが、敗北は目の前に迫っているように見えた。昨夜も2人は共に夜半まで起きていたが、その夜更かしの負債を取り立てられていることは明白だった。
だがキングはあくまで会話を続ける。
「空港の駅が2つあるよね。成田空港駅で降りるのは、リョウも私も一緒?」
「ああ、そうだ」
「私の飛行機は第1ターミナルだった。リョウは?」
「俺もだよ」
「…そう」
良かった、とは口に出さず、キングはただ頷く。低声で淡々と、会話は続いた。帰ったらどんな用事を片付けねばならないとか、日本のあのご飯が美味しかったとか、話すことと言えばそんな、益体もないことばかりであった。けれども、今は会話をすること自体が2人にとっては大事だった。ただこうやって、お互いの声を鼓膜に、姿を網膜に焼き付けることだけが。
もうすぐ成田空港駅に着こうとする頃、キングはとうとう眠気に負けて目を閉じた。瞼をふちどる長い睫毛が頬に影を落とす。電車の揺れが、キングの体をリョウに傾けさせ、彼女の頭は自然と彼の肩に支えられた。
うつらうつらと船を漕ぐ彼女の額に口づけたい衝動を堪えながら、リョウは車外を見やる。トンネルの中を進む電車の中からは、外はただの漆黒としか見えず、鏡のように車内を映し出す窓には、キングと自分が映り込んでいた。行きは父と一緒にこの空港と都心を往復する特急列車に乗っていて、このあたりを通過するときには今と同じように自分と父が映る車窓を眺めていた。その時は帰り道の同行者が彼女になるなどとは、まったく予想もしていなかった。
キングの髪から、ホテルのシャンプーの香りが立ち上り、リョウの鼻腔をくすぐる。その芳香はリョウに、この数日の彼女との交情をたやすく思い起こさせた。彼女の肌の柔らかさ、囁く声にこもる熱、リョウを求めて彷徨う視線、その全てを彼はありありと思い出すことが出来た。
この先、自分と一緒にいてほしい、という自分の気持ちを伝えたい。彼女に会う前に思っていたことと言えばそのくらいだった。数日でこんなに深く結びつき、想いを分かち合うようになるとは思ってもいなかった。
大会の高揚や、優勝の喜びが彼を少し大胆にしたかもしれない。けれども、事態はリョウが思った以上に加速度的に進行した。きっとそれは彼だけではなく、キングもそれを望んだからだった。
車内放送が彼らの電車の旅の終わりを告げた。リョウはキングの肩を叩く。
「もう着くぞ」
声をかけるとキングは目を覚ました。
「私、寝てた?」
「少しな」
答えて、リョウは席を立つ。特急列車は終着駅にゆっくりと停車し、乗客を吐き出した。荷物と共にホームに降り立った人々は、頭上の案内掲示を見ながら、もしくは同行者と談笑しながら、移動を始めた。
キングは、車両の端に備えられていたラゲッジスペースから自分のキャリーバッグを引っ張り出した。寝たくないのに寝てしまった自分の不甲斐なさに少し腹を立てていた。本当は1分でも、1秒でも、おろそかにしたくなかった。刻一刻と迫るリョウとの別れまで、目を開け彼と話をしていたかったのに。
列車から降りると、先に降車していたリョウが見知らぬ青年に話しかけられていた。20歳そこそこだろうか。彼らは日本語で話していたので、キングは彼らが何を言っているかは全く分からなかったが、どうも道を尋ねられているわけではなさそうだった。少し興奮気味の青年にリョウは愛想よく応じ、彼と一緒に彼の携帯電話のカメラに収まった。
最後にがっしりと握手をして、青年は去った。リョウはキングに向き直る。
「待たせてすまない」
「大丈夫だよ。どうしたの?」
「大会を観ててくれたみたいで、話しかけられた。空手をやってるらしい」
「ふぅん」
キングは相槌を打つ。ある特定の世界では、リョウはそれなりに知名度があるらしい。彼と必要以上にベタベタしていなくてよかった、と少しだけ思った。
「こっちだ」
リョウはキングに声をかけ、エスカレーターに向かって歩き出す。歩きながら、
「持とうか?」
とキャリーバッグを指して問うが、キングは首を横に振った。
「大丈夫」
どうせすぐ預けるし、と言うと、そうか、とリョウは応じる。長いエスカレーターは彼らをゆっくりと出発ロビーへ運んでいた。
自分の横に立つ男の、両手には何も無かった。キングはその手を握りたくなったが、思いとどまる。握ったら最後、離したくなくなってしまいそうだったから。
地下から一気に成田空港第1ターミナルの4階まで登ると、出発ロビーには数多の人が大小の荷物を携えて行き交っていた。高い天井には煌々と照明が灯り、床に反射してさらに明るさを増すようだ。
英語や日本語で繰り返される搭乗案内のアナウンス、人々のざわめき。絶え間なく更新を繰り返す時刻表と、窓の向こうの滑走路でそれに合わせるかのように間隙なく飛び立ち続ける旅客機たち。空港はいつもと変わらず、2人の事情に関わらず、そこにあった。
エスカレーターを降り、歩く。キングのキャリーバッグのタイヤが回るゴロゴロと言う音が、2人の後について回った。
成田発ヒースロー行きの直行便は、すでにチェックインを開始しており、全日空のチェックインカウンターには長蛇の列が出来ていた。
「チェックインして来るね。リョウの便はまだ出来ないよね?」
「ああ。でも一緒に並ぶよ。1人で待ってても暇だしな」
2人は列の最後尾に続いた。
チェックインカウンターでは日本人のスタッフたちが忙しそうに立ち働いている。彼らは勤勉に職務にあたっていたが、それでもキングがチェックインを終えるには、しばらく時間がかかりそうだった。
キングは待ち時間の話題を探しあぐねた。これからすぐ彼と離れなければならなくなる、その思いが彼女の口を重くしていた。
2人には各々、生活のベースがあり、それらは遠く海を隔てた場所に存在していた。あまりそこを長く留守にするわけに行かないと言うことは、互いに承知していた。この、日本という国、東京という場所で過ごした数日間は、非日常の極みであることも。
2人とも、日常に戻らねばならなかった。
ただ、繰り返す日々の暮らしの先に、今までには考えも及ばなかった景色が見えて来ることになったのも事実だった。その景色が現実になるには、少々の時間と少々の煩雑さを伴う事務的な手続きが必要だろうが、それは全く困難を覚えるものではなかった。
キングはそう思っていた。
そしてリョウもそう思っているのか、知りたかった。それを口にするか、否か、キングは迷っていた。出発までいくばくもない。ゆっくり話をする時間は取れそうになかった。
こう言う込み入った類の話をするのは難しそうだ。彼女は諦め、別の話題を探そうとした。
その時、リョウが口を開いた。
「また近々、ロンドンに行きたいな。今度は泊めてくれるか?」
キングは少し顔を上げて彼を見、頷く。
「もちろん」
「ジャンにも会える時が良いな」
「じゃあ、リョウが来る時に、来るように言っておく」
「ありがとう。…その」
リョウは少し気恥ずかしそうな表情になりながらも、キングの顔を正面から見ながら言う。
「ジャンにも言っておいたほうがいいだろ。…これからのこと」
自分が迷いに迷って口にしなかったことを、あっさりと告げて来るリョウの率直さに、キングは少し胸のつかえが取れたような気持ちになった。
「…うん」
キングはまた頷いた。
彼の手を今度こそ握りたくなって、温かい手のひらを探そうとしたその時、チェックインの順番がやってきた。キングは少し残念に思いながらも、素直にチェックインカウンターのスタッフのもとに向かう。手続きを済ませ、荷物を預けた。スタッフは傍らのリョウにもチェックインを促すような目線を送った。
「俺は見送りだから」
リョウは言った。さようでございますか、とスタッフは答え、キングのチェックインは終わった。
チェックインカウンターとは少し様子が違い、保安検査場の人の列はそこまで長くなく、あまり待たされずに保安検査を終えることが出来そうだった。ポールパーテーションで区切られた列を整理するスタッフが、やってきた乗客たちを慣れた様子で誘導していた。
ゲートに吸い込まれていく検査待ちの人々の後には続かず、リョウとキングはどちらからともなく歩みを止めた。ここで、別れなければならなかった。
この数日のことをキングは思い返す。2人の間に起こったそれを、自分がどれだけ望んでいたかと言うことも。その証拠に、彼女はリョウが自分に求める全てのことを許し、彼女からも求めた。彼の指はキングの全身にくまなく触れ、彼の唇は愛の言葉を囁きながら彼女の肌の上を這った。
離れがたかった。まだ話したいことが積み残した荷物のようにたくさん、心の中にあった。それだけではない。彼のそばにいて、同じものを見、同じことを聞いていたかった。
だが、搭乗時間は刻一刻と迫っている。保安検査を通過したら、出国審査がある。時間がかかる手続きだ。もうのんびりしている余裕は無かった。
「……元気で」
「ああ」
2人は正面から見つめ合った。
キングの白皙の顔、その大きな眼窩の中の瞳に潤みが走るのをリョウは見た。その瞬間、彼は自分を抑えられず、人目も憚らず彼女の腰に手を回し引き寄せ、この数日何度となく己のかいなの中に包んだ彼女の体を、強く抱きしめた。
そして彼女の顔を覗き込み、顎に手をかけ、迷うことなく口づける。
彼らの間近で行列をさばいていた保安検査場のスタッフが、恋人たちからさりげなく目線を逸らした。
唇を離し、代わりに頬を寄せ合う。リョウの無精髭がキングの頬にちくちくと刺さる。その甘い痛み。いつまでも感じていたい、男の感触を愛おしみながら、キングは囁く。
「…離れたくない」
「俺もだ」
リョウはそう答えて、またキングに唇を重ねた。啄むような口づけの合間に言葉を交わす。
「すぐに来て。ロンドンに」
「わかった。すぐ行く。………」
リョウは知ったばかりのキングの本当の名を、彼女の耳元で呼んだ。この世でいちばん大切な秘密のように、ひそやかに。
キングはその声を目を閉じて聞き、リョウの首に回した腕に力を込め彼に縋りつき、そして未練を断ち切るように、すぐに離れた。
「またね」
「ああ」
キングはリョウに背を向け、トレンチコートの裾を翻して保安検査場のゲートを潜った。その背中は、一度も振り返らずに、ゲートの奥へ消えた。

■■■

「次の方」
出国審査官は、審査を待つ人の列に向けて声をかけた。呼ばれて彼の前に立ったのは、小豆色のフランスのパスポートを差し出したショートヘアの女性だ。黒いキャッツアイ型の、サンローランのサングラスを身につけていた。
「マダム、サングラスを外していただけますか?」
問うと、女性は無言でサングラスを外す。春の空のような、薄い青色の美しい双眸が覗いた。
審査官はハッと息を呑む。彼女の美貌だけが理由ではない。その瞳が、涙でゆらめいていたからだった。
プロらしく、巧みに驚きを隠して、審査官は彼女の顔がパスポートの写真のそれと違わぬことを確認すると、出国のスタンプを押した。いつもならそれで終わりだ。
だが、彼は、つい声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
キングは少し笑って頷く。そして、親切な若い審査官に答えた。

 

「大丈夫。恋をしてるだけ」

 

 

fin.


Cherry blossoms」からだらだらと書いていたリョウキン東京シリーズです。時系列的には東京シリーズの一番最後に来るので、そろそろ東京のお話は打ち止めだと思う。「Roots and flowers」の次の日くらいのつもりで書いてます。このシリーズ、超独自設定なのに数が増え過ぎて、最初から読んでもらわないと訳が分からなくなって来てるんじゃないかと少し心配しています。
恋人同士のお別れシーンを綺麗に書きたいな〜と思って書いたんだけど、自分の中で彼らが美化され過ぎてるんじゃないかなとかいつも陥る心配性な気持ちに陥りながら書いてた感じでした。だからって修正するつもりもないんだけど…美化されすぎですがお楽しみいただければこれ幸いです。