超高層ビルが途切れもせず、林のように並ぶ。灰色の幹を縫うように、高速道路が螺旋を描く。海の上にさえハイウェイは触手を這わせている。
春独特の、輪郭がかすんで見える空気は、ロンドンに比べるとずいぶん温かかった。私は今回、友人の戦いを見に来たのだ。……
『今度、日本で公式大会に出るんだ。見に来ないか』
と、「明日バーベキューをやるから近所のデイキャンプ場に来ないか」とでも誘うかのような気楽さで電話越しの友人……リョウは言った。
「日本まで何万マイルあるか知ってるの?」
リビングで新聞を読んでいた私は、一面記事の見出し―経済のニュースだったが―を目の端に留めながら答えた。
『ロバートとユリも来るんだ。ミラノから一緒に乗せてもらえば退屈しないだろ』
「わざわざミラノでトランジットするほど私も暇じゃないんでね」
『日本はロンドンより暖かいよ。気分転換にどうだ』
その言葉は私の興味を呼び起こした。毎年のこととは言え、ロンドンの薄寒い、いつまで経っても日照時間の延びない陽気は、決して居心地の良いものではなかった。
「…そうね。行こうかな」
『じゃあ、チケットと航空券を送るよ』
「ずいぶん気前がいいね」
『主催がゲストを呼んでいいって言うんでな。インビテーションと、ホテルの案内が主催の会社から行くと思うから』
「ああ」
『向こうで大会が終わったら飲みに行こう。じゃあな』
電話はあっけなく切れた。
数日後、本当に日本からエアメールが届いた。ヒースローと成田間の往復のビジネスクラスのオープンチケットと、大会会場の案内、バックステージパス、会場近くのホテルが予約済みである旨のビジネスライクなレターが添えてあった。
私は、その日から全く落ち着かなかった。日中の服、カクテルドレス、それらに合わせるパンプス、アクセサリー、メイクのアイテム、組み合わせを考えれば考えるほど混乱し、セルフリッジズやハロッズへと出掛けては無駄な買い物をしてしまった。シンプルに立ち返っては物足りなさを覚え、あれこれ鞄に詰めてはやり直す。いつもならすぐに決まる事柄が遅々として進まなかった。
出発の直前までそんなことをしていたので、ヒースローに駆け込んだのは、実にチェックインの期限ぎりぎりだった。
飛行機の中でも、私のふわふわした気持ちは変わらなかった。ビジネスクラスなど、幼い頃に両親とともに乗って以来だ。快適過ぎて夢の中に直行するはずだったのに、目が冴えて眠れなかった。
機内のテレビで映画を2本を見終わった頃、室内灯が消えたが、それでもなお私は眠れなかった。ビジネスクラスの快適なシートの上で、じりじりとした時間をずいぶん長いこと過ごさなくてはならなかった。
漸く現実との境目が曖昧な映像が、脳裏を行ったり来たりしはじめた頃。
キャビンアテンダントに容赦なく起こされ、朝食の時間になった。結局、私は長いフライトの間をほとんど寝ずに過ごした。
快適なはずの航行は思いもよらぬ結果に終わり、全日空のボーイングが優雅に成田に降り立った頃には、私はひどく疲れていた。チケットに添付されていたレターの交通案内を頼りに、どうにか東京湾を見下ろすホテルに着いた頃には、もうすっかり日も暮れていたのだった。
リョウも、ユリも、ロバートも、きっとこのホテルに滞在しているだろう。それは解っていたのだが、友人に久闊を叙するには疲れ過ぎていた。パンプスとシャツとベルトに縛められた体を解放し、熱いバスに浸かって、強張っている四肢をほぐしてやりたい。そんなことを考えながら、バスタブに湯を張り、シャワーを浴びた。
携帯電話が鳴ったのは、バスタブの中でストレッチをしている、そんな時だった。
無視していたが、意外にしつこい。
しょうがなく、裸のままで電話に出た。
「はい?」
『あ、キングさん!』
ユリの声だった。
『いつ頃着いたの? ご飯食べに行かない?』
「ついさっき着いたばっかり。悪いんだけど、ちょっと疲れててさ……。今日はもう寝ようと思ってるんだ」
電話の向こうに姿見があった。自分の体から落ちる水滴が、足元に水たまりを作り出しているのが見える。空調が効き過ぎていて、裸でいると風邪をひきそうだった。
『そうなの? またロバートとふたりでご飯だよ。ミラノからずっとふたりだから飽きちゃった。キングさんに会いたいなあ』
と、ユリは悪びれず、ロバートが聞いたら「そりゃないで」と天を仰ぎそうなことを言う。
「リョウはいないのかい?」
『いるけど、試合前だから、誰とも会わないみたい。ホテルのものも食べないし』
「タクマは?」
『お父さんは明日来るの。キングさん、今日は本当に無理なの?』
「飛行機の中で眠れなくってさ」
私は肩をすくめた。
「ふたりで素敵なディナーを楽しみなよ。明日、朝ごはんを一緒に食べよう。8時にロビーでどう?」
『私たちの部屋まで来て一緒に食べようよ』
一瞬、大人3人でブレックファストを摂るのにはこのスーペリアは手狭じゃないか、とも思ったのだが、彼らがただのスーペリアに泊まる訳はないことにすぐ気がついた。
「何階のどこ?」
『37階のいちばん奥』
「奥?」
『ロイヤルスイートって言えば案内してくれると思う』
予想通り最上階のスイートに宿泊しているようだった。
「解ったよ。じゃ明日、8時にね」
そう言って、電話を切った。小走りでバスタブに戻り、肩まで浸かる。空調に冷やされた体が、ふっと緩んだ。
鼻先を雫が伝っているのを感じながら、私は自分を招いた友人の顔を思い出した。
最後に会ったのは、昨年のボジョレー・ヌヴォーの解禁日だ。リョウもユリも、毎年その日にはわざわざロンドンの私の店で新酒を開けるのが、ここ数年の約束ごとのようになっていた。半年弱、顔を見ていないことになる。
顔くらい見ようか、と、リョウのことを思ったが、先ほどのユリの言葉を思い出した。
声くらい聞こうか、と思った。思うと、ゆっくり湯につかっているのがまどろっこしくなった。バスタブを出て石鹸の泡を流し、バスローブを羽織って部屋に戻る。携帯電話の履歴から彼の電話番号を辿り、発信すると程なく繋がった。
『おお、来たか』
懐かしい声が応えた。ユリが言っているほど、張り詰めているようには感じられなかった。
「調子はどう?」
『うん、悪くない。いつ頃着いた?』
兄妹揃って、同じようなことを聞いてくる。
「ついさっき」
『飯でも行くか? 酒は飲めないが』
「えっ」
驚いて、変に上ずった声が出た。
『何だ?』
「い、いや」
彼の妹は、彼は誰にも会わないし食事も摂らない、と言っていたのに。
気でも変わったのだろうか。
鏡の中の自分を見た。すっかり化粧も落としていて、髪は洗いざらしで、そのうえ、飛行機の中が乾燥していて肌の調子はあまり良くなかった。服を着て、化粧をして、髪を整え……そんなことをしていたら、リョウをひどく待たせることになってしまいそうだ。
逡巡していると、電話の向こうでリョウが言った。
『今日は疲れてるか? やめとくか』
「……いや、そういうわけじゃないけど……準備に時間がかかりそうで」
『準備? 何の準備だ』
「今、お風呂に入ったところだったから」
『服着てくればいいだけじゃないか』
と、リョウはそんな無頓着なことを言う。
「あのね、私はあんたと違って、ボサボサの頭でレストランに行くなんてことは出来ないの。化粧だって落としちまったし」
『そんなの、気にするなよ』
「気にするよ」
『俺は待てるよ』
リョウはさらりと言った。
そこで私はまたしても、段取りをざっと頭に浮かべた。まず、保水。乾燥がひどいから、パック。それから化粧をして、着替えて、と言うか、スーツケースから出してない服をまずはハンガーにかけて、しわを伸ばして、化粧はその後だ。でもその前に、髪にアイロンを当てないといけない。まず、保水。パック。服の準備。ヘアアイロン。それから化粧……
『キング?』
無言になってしまった私に、リョウが訝しげな声をあげる。
「…うん」
『どうした?』
「いや…」
『やっぱり疲れてるみたいだな』
笑みを含んだ声で彼は言い、優柔不断な私に見切りをつけたようだった。
『大会の後、ゆっくり飲みに行こう。じゃあな』
そして電話は、再びあっさり切れた。
私も電話を置いた。すっぴんで会いに行けばよかっただろうか。一抹の後悔が胸を過ぎったが、やはり長旅の疲れた顔を見せるのは気が引けた。これでよかったんだ、と言い聞かせて、ベッドに潜り込んだ。時差ぼけしているはずの体は疲労に負けて、あっと言う間に眠りの淵に沈んだ。
◆◇◆
日本の複数の、私でも名前を知っているような企業が協賛している大会なだけあって、ベイエリアの会場は大きかった。プレミアリーグのスタジアムくらいはあるのではなかろうか。
客も大入りだった。人々の期待や熱気が入り混じったざわめきが、コロシアムの天井に反響して、波濤のように果てがなかった。
ときおり、待ちきれないかのように、気の早い客が野次を飛ばす。日本語だったり英語だったり、韓国語だったり、なかなか国際色豊かだった。
「オリンピックみたい」
傍らのユリがそんな感想を漏らした。言い得て妙だった。
私とユリ、ロバート、そして今朝ホテルに到着したタクマの4人は、リング近くの招待者席に陣取って、トーナメントが始まるのを待っていた。
約束通りロバートとユリのスイートルームで朝食を摂った。表面的な空気こそ和やかだったが、ロバートもユリもタクマも、まるで自分が戦いに赴くかのように神経を尖らせていた。
そしてこの席でも、高揚と緊張がないまぜになった空気感のせいか、私たちは無言がちで時の過ぎるのを待っていた。
やがて、司会がリングに立った。
地鳴りのような人々の声が、コロシアムを震わせた。
既視感を覚えた。
規模は違うし、もっとアンダーグラウンドなものだったが―かつて、私も、こんな舞台に立っていた。
生活の糧だった。だが、それだけではなかった。
純粋に喧嘩が好きだった。相手の隙をついて食らわす一撃にいつも、酩酊のような喜びを覚えた。浴びせられる野次すら心地良かった。
全身に漲るアドレナリンと、それに比例して研ぎ澄まされる五感、いや、五感すら超えた感覚。それらを私は愛していた。殴られたら倍にして蹴り返した。脚は脳から遠い故に制御の難しい器官だとよく言われるが、私にとっては違った。まるで使い慣れた鞭のように、伸び、しなり、相手を叩きのめした。
自分がいつから戦いを必要としなくなったのかは、もう自分自身でも忘れてしまった。もちろん、体を鍛えることや技を磨くことは止めていない。それは呼吸と同じくらい、私にとっては自然なことだからだ。ただ、自分の持つ技が生活の糧と直結しなくなってから、私は戦うことをしなくなっていた。
これからリングに上がって来るはずの友人も、それは同じはずだった。ストリートファイトで生活していたのはもう一昔も前のことだろう。
けれど、彼は戦い続けている。
リング上の司会が高らかに選手の名を呼ぶ。大会が始まろうとしていた。
それは、なかなか見応えのあるトーナメントだった。隣の席のロバートやタクマも、たまに感嘆の声をあげたり、逆にそこはこうだろ、というようなことをひとりごちたりしていた。岡目八目というのか、私も「そこはこっちの手だろう」と思うタイミングが彼らの呟きとほぼ同じだったりして、それもまた興味深いものだった。
選手の登場やコールも、ライティングやBGMも華々しく、会場にはリングを中心にして何台ものロボットカメラが動いているのが見てとれた。おそらく全世界に同時に中継されているのだろう。そう言えば私の座る関係者席の近くの報道関係者席に陣取る記者やカメラマン達の国籍も多種多様に見えた。
巨額の資金を投じてプランニングされ、それ以上の金銭を回収する、完全にコマーシャルな格闘大会。それはもはやトーナメントというよりは一つのエンターテインメントのジャンルであり、格闘家たちも一人の人間というよりはカリカチュアされたカリスマを背負わされているように見えなくもない。
それでも世界中から招聘された猛者たちの異種格闘技戦は、心を揺さぶるものがあった。
何試合かが終わり、やがて。
照明が一瞬消え、会場の巨大液晶パネルに、その名が映し出される。
「とうとう来よったな」
ロバートの声に喜色がうかがえた。
『無敵の龍 坂崎リョウ!』
女性のアナウンサーがその名を呼ばわる。日本語なのでよく分からない。何て言ったの? 私が問うと、「Invincible Dragonって言ったんだよ」とユリが教えてくれた。ちょうどその時、花道の奥からリョウが現れた。大歓声が会場から沸き起こる。意外と有名なんだな。少し驚いた。
大画面に映し出された友人の顔は、普段とあまり変わらない様子だった。
龍の鬣のような金髪はざっくりと立てられ、顎の周りには同じ色の髭を蓄えていた。いつ頃からはあまり覚えていないが、ここ何年か、リョウは髭を生やすようになっていた。
「──笑ってる」
頭の中でつぶやいただけのつもりだったが、声に出ていた。リョウは笑っていた。唇の形や頬の歪みだけではなくて、彼の蒼い瞳からも高揚が見て取れた。
そんな私の声も、極大音量のBGMと歓声にかき消されつつあった。リョウが歩みを進めると観客が動いた。花道の周りに人垣ができる。セキュリティの担当者たちが、熱狂する観客が差し伸べる手を遠ざけようとしているが、リョウは意に介さずその中を歩いた。
リングで待ち構えているのは、フランス人の柔道家だ。
リングに上がる階に右足をかけた時、彼の表情が一瞬にして変わり、
「押忍!!!」
口の動きが、彼がそう吠えたことを伝えた。激しく明滅する照明のもと、大画面の中のリョウの姿もまたスパークを繰り返していた。
◆◇◆
サイドテーブルの上に置きっぱなしにしていた電話が鳴る。
リョウだった。
「……もしもし?」
会場の喧騒が嘘のように静かなホテルの部屋に、自分の声だけが反響しているように感じる。
『よう、見てたか』
「見てたわよ」
大会を制した格闘家の声は、試合後とは思えないほど落ち着いていた。
連続8人抜きという、ほとんどローマの剣闘士のように過酷なレギュレーションを、しかしリョウは勝ち抜いた。最後の対戦相手はまだ若い日本人の格闘家で、かなり手こずっていたようだったが、それでも私の見立てが確かならば、そこまで大きな怪我もなく勝利を手にしたように見えた。
「おめでとう」
『ありがとう』
「こっちこそ、招待してくれてありがとう。楽しかった。体はどう?」
『メディカルチェックも通ったし、大丈夫だった。酒は2〜3日やめとけと言われたけどな。なあ、あとどのくらいこっちに居られる? 折角だから観光して行かないか。案内するよ』
大会のインビテーションに同封されていた飛行機の航空券はオープンチケットだったので、特に滞在の期間に縛りはない。漠然と「1週間くらい」と、ジャンや店のスタッフには日程を伝えていた。特に問題はなかった。
「いいわね」
『よし。じゃあ、決まりだな』
「明日は休めば」
リョウの体調を気遣い、一応、提案してみる。
『そうだな……。じゃあ、明後日。2時にロビーで』
「オーケー」
電話は切れた。
同じ建物の中にいるのだと思うと、顔を見たくもあったが、彼の身を案じる気分の方が勝った。
ふと窓の外を見る。闇の中に東京湾の夜景が浮かんでいる。陸は宝石箱をひっくり返したように明るく煌めき、真っ黒な海の上を幾つもの屋形船がゆったりと動いていた。船も電飾で飾られていて、それらは宇宙を漂う宇宙船と、それを受け入れる宇宙ステーションのように見えた。自動車のライトがひっきりなしに行き交う道路、聳える摩天楼、全てが必要以上に明るく、東京という街の巨大さや豊かさを示しているようだった。この景色をリョウも見ているだろうか。生まれ育った国のこの煌びやかな眺めは彼の目にはどう見えているのだろうか。そんなことを思う。
夜景に魅入られ、私はその擬似銀河を飽かず眺めた。試合を決めた後、インタビュアーから突き出された何本ものマイクに向かってリョウが語った言葉を思い返した。
「強い奴と戦えて良かった。心の底から戦いを楽しむことができたのは、家族や友人のおかげだ。今日、この会場に来てもらった家族や大切な友人に、この場を借りて礼を言いたいと思う」
彼の言う「大切な友人」の中に自分が含まれていることは、もう疑いようもなく、その事実は私の心を温めた。私にとってもまたリョウは大切な友人だった。ただ、その大切と言う感情の容積や、友人という言葉が示す人間関係の範囲のようなものについて、自分のそれとリョウのそれが等価なのかどうか。それだけは、未だ測り兼ねていた。
測り兼ねていながらも。
私は窓辺から向き直り、スーツケースから客室のクローゼットに移していた手持ちの洋服たちを眺める。長考の末おっとり刀で詰め込んだそれらは、やはり色々なところが気になった。明日、買い物に行かねば。そんな決意を、クローゼットの前で、私は固めた、幸いにして、ここから程近い銀座という街が、アジアでも最高のショッピング街の一つらしいので。
◆◇◆
良い天気だった。
リョウの言った通り、ロンドンよりも余程ご機嫌な天気である。よく晴れた青空にはところどころに薄い雲がかかっているが、日光を妨げるほどのものではなかった。日陰に入れば寒いが、日当たりの良いところではアウターのボタンを開けたくなるくらいには暖かい。冬物が手放せないロンドンとは大違いだった。
地下鉄の…いや東京ではメトロと呼ぶのか、とにかくロンドンのそれに引けを取らない複雑な路線図を描く地下鉄に乗って、私は紫色のサークルで囲まれた路線の駅で降りた。古びた構内を歩き、階段を登り切ると、平日の午後であるにも関わらず、ものすごい人出だった。皆、首を傾けて上を見上げている。彼らの視線の先には満開の桜が、一体何本生えているのか分からないほどに林立していた。
私の後からリョウが階段を上がってくる。つい2〜3日前のゴールデンタイムに全国ネットで中継された格闘技大会を制した男だと言うことに気がついた者が、その場に何人いただろうか。
ホテルのロビーで落ち合った彼は、道中見たところ、数日前のダメージを感じさせるものは何もなかった。
桜を眺めながら私は言った。
「綺麗ね」
「そうだろう」
頷き、笑みに歪むリョウの頬にはうっすらと髭が生えている。黒いレザーのライダースジャケットに、白いスウェット、色落ちしたジーンズ。ロンドンの私の店を訪れる時とあまり変わらないいで立ちだった。
駅からの道は、濠沿いにやや湾曲しながら続いていた。緩やかな上り坂をゆらゆらと歩く。私たちのすぐそばにも、また濠の周囲にも、薄いピンクに色づいた桜がけぶっていた。ビジネスアワー中の気分転換をしているようなスーツ姿の男性たちや、学生服の少女たち、子連れの女性と彼女の母親に見える女性、私のような外国人の観光客まで、様々な人々がその爛漫とした桜並木をうきうきと歩いているのだった。
不思議なところだった。ホテルから東京湾岸へと繋がる埋立地も、ホテルの最寄りの駅の周辺も、東京はとにかく巨大なコンクリートジャングルだと言うのに、そこには濠があり豊かな水を湛え、ボートで遊んでいる人々までいる。芝生は美しく整えられ、超高層ビルは注意深く遠ざけられていた。世界でも有数のパワフルな街の真ん中に、不思議なエアポケットがあるのだった。
どこに行くとも、言わず、問わず、私たちはしばらく歩いた。
「この花を見ると、思い出すよ。昔この国に住んでたことを」
リョウが呟くように云った。
「国中、そこかしこで同じ花が咲いている。クレイジーだろ。でもみんなこの花が好きなんだ」
「ふうん。そうなんだ」
私も、満開の桜に心を奪われながら、少し上の空でリョウの言葉に応じた。
桜並木を進めば進むほど、人の群れが密度を増していくようだった。
人ごみに流されて、気がつくと私はリョウを見失った。黒髪の人波の中に、彼のブロンドを探す。
「キング」
名を呼ばれて振りかえると、リョウが手を挙げていた。
「大丈夫か」
「うん、すごい人だし……花に見とれちまうね」
私たちは再び肩を並べて歩き出した。その時、リョウの手が、ひらりと私の手をとった。
私は思わず彼の横顔を見上げた。すると、リョウも私を見た。
至近距離で見つめ合うことになり、私は思わず立ち止まる。
しかしそれは一瞬の停滞だった。
「…行こうか」
リョウが言い、歩き出した。手は繋がれたまま。
リョウは桜を眺めながら歩いている。平生と全く変わらず、落ち着いた様子で。
重なった手のひらが熱い。
大切という言葉の容積。友人という言葉の意味。
自分は少し鈍いのだろうか。
今やっと、ちゃんと分かった。
分かるまで、随分かかった。
そんなことを思いながら、桜を見上げた。どこまで続くのか想像もつかない桜並木。リョウの瞳のような色の空の下で、薄紅色の花びらが可憐に揺れていた。
◆◇◆
ホテルに戻った頃には、夕闇が湾岸沿いの超高層ビル達にうっすらと覆い被さってくる刻限だった。エレベーターを無言で待っていると、リョウが「一杯どうだ?」と尋ねてきた。断る理由はなかったが、つい2〜3日前の試合のことが気になった。
「飲んで大丈夫なの?」
「大丈夫さ」
リョウは頷く。
「なら、いいわ」
ちょうどやって来たエレベーターに乗り込み、「28」のボタンを押しながら頷く。仕事柄か、こういう場所のバーがどこにあるのかどんな内装なのか、というのがやたらと気になるので、このホテルのバーの場所も到着して早々に覚えてしまった。
夜景を望むカウンターのスツールに並んで腰掛け、他愛のない会話をぽつぽつと交わしながら、各々杯を重ねているうちに、すっかり夜になった。
ホテルの高層階からの眺めは一昨日と変わらず、銀河に宝石を惜しみなく流したかのようだった。
「そう言えば、いつ帰るの。サウスタウンに」
「実は明日、親父とユリと合流するんだ。日本なんて滅多に来ないから、墓参りすることになったんだよな。だからあと何日かはこっちにいる予定だ」
「ロバートは?」
「ユリと一緒に帰るからって、まだ日本にいるよ。日本の支社でデスク借りて仕事してるみたいだけど」
「そうなの」
「キングは?」
問われて、考える。
特にイギリスに早々に戻らねばならない予定は無い。本当に無かった。店もジャンも、私が数日不在にしていたからと言って何か致命的な事態が起こるとは考えにくかった。
だからと言って、ずっとこちらにいなくてはならない理由も無かった。
何と答えようかな。ふと考えこむと、
「キング?」
リョウが重ねて私の名前を呼んだ。
「…分からない。決めてない」
リョウは意外そうな顔をした。
「決めてないのか?」
「そうよ。明日かも。明後日かも。──今かも」
「今って」
「リョウは、どうして欲しいの」
私はワイングラスに向けていた視線を上げ、リョウを見た。頬が熱いのは、酔いのせいか、別の理由か、自分でも分からなかった。
リョウが戸惑っているのは、それこそはっきりわかった。
「そんなこと、俺が決めて良いのか」
と、高校生のようなことを言う。
日本に来いと言い、案内してやるから滞在を伸ばせと言い、午後中手を握っていたくせに。
そんな思わせぶりをしていたくせに、ここでそんな風に迷うのは、ずるい。
不意にそんな気持ちになって、私は意地悪く言った。
「リョウが決めないなら、今帰る」
「それは無いだろ」
リョウは困ったように眉尻を下げて、言った。
「無くないでしょ」
私は即答する。
リョウの顔が赤いのは、酔いのせいなのか、別の理由なのか、流石に私でも、分かる。
「言わせるのか?」
「私はいやな女でね。昔から自分の腕力と契約書以外のことは信用しないことにしてるのさ」
「契約書ね」
「何事も言葉にしなくちゃわからないよ」
「そうだろうか」
リョウは私の駄々に真っ向から応じる。そんなきまじめさが欝陶しい。そして、かわいらしい。
「女は言葉を欲しがる生き物なの」
「言葉も、だろ?」
リョウは笑う。
「言葉も真心もプレゼントもだろ?」
「そこまでは言ってない」
リョウはふと真顔になって、しばらく視線を逸らしていた。やがてウイスキーをあおると、テーブルの上でいらいらとワイングラスを玩んでいた私の手におのが手を重ねた。とても温かい、大きい手のひら。
「…わかるだろ?」
「わからないよ」
間髪入れず、意地悪に切り返す。
「照れ臭いんだよ」
「そんなの、許さない」
リョウの表情に少年めいた戸惑いと含羞が揺れている。
「…つまり」
リョウはせつなげな吐息と共に言う。
「今日は帰るな。そばにいて欲しい」
辺りの音がまた一段と遠ざかったように感じられた。
リョウは空いているほうの手を挙げて、バーテンにチェックを告げた。
◆◇◆
「そんなに堅くなるなよ」
と、リョウが笑った。
「うん」
私は頷いた。
言おうか言うまいか迷っていた言葉を、言うことにして、息を吸う。
「一応、言っておくけど…私、本当に久しぶりだから、こう言うの」
とても恥ずかしくて彼の顔を直視できない。すると、
「気にするな、俺もだ」
リョウはこともなげにそう返してきた。
意外なようで、意外でないような返答だった。
リョウはホテル備え付けのバスローブ姿のまま、ベッドの端に座った私の傍らに腰掛け、私の頬に口付けてきた。挨拶みたいな軽いキスだったけれど、私は…小娘のように…身構えたまま、身じろぎせずそれを受け入れた。
私のバスローブの紐が解かれた。肌に空調の生温かい風が直接当たる。
リョウの手が私の頬に添えられ、私を上向かせた。自分でも驚くほど鼓動が速くなるのが分かった。彼の顔が間近にあり、青い瞳が私を見ていたが、私は目を伏せた。とてもではないけれど目線を合わせることが出来なかった。
私は彼の唇を、緊張しながら受け入れた。
遠慮がちな、唇と唇が触れるだけの。
それが、私たちの、初めてのキスだった。
唇が離れ、私たちは無言で額と額を寄せ合う。
私の心臓は、いつ壊れてもおかしくないくらいの速度で波打っていた。
リョウが腕を伸ばし、私は彼に抱きしめられた。皮膚と皮膚が温度を伝え合う。温かくて、心地よかった。
彼の手が私の背中を撫でる。
私もおずおずとリョウの背中に腕をまわした。リョウが体勢を変え、私をゆっくりとベッドに押し倒す。ホテルの天井が視界の中に入ってきた。白くて、高くて、薄暗い。
「いいか?」
リョウが尋ねてくる。うん、と頷くと、彼の手が動き、私の肌に触れた。温かい。
「あっ」
思わず、唇から声が出た。
自分でも忘れていたような場所を、いきなり掘り当てられたのだった。
リョウが手を止め、私の声の理由を探るような視線を寄越す。彼の手が再び動いた。
「や……ちょ、ちょっと」
思わず身をよじる。
「そうか、いやか」
リョウはなんだか愉しそうに、同じことを続けた。
私は喉の奥からこぼれ落ちてくる吐息をあまりたくさん漏らさないように、呼吸を調節するので精一杯だった。
「あ、あ!」
「痛い?」
リョウが尋ねた。
「少しね」
久しぶりに男を受け入れる私のそこは、すっかり潤ってはいたけれど、リョウの剛直が奥へ分け入ろうとするのを拒む。
でも、それは少しの間のことだと、私は知っている。
何せ大人なので。
だから答える。
「大丈夫」
「痛かったら言えよ」
「大丈夫よ」
私は目を閉じ、体の力を抜いた。熱い楔が身体に打ちこまれる。そのたびに身体の芯が痛んだが、私はその苦痛に耐えた。リョウはゆっくりと、私の中に入って来た。
じれったいほどの時が過ぎ、私たちはようやく、深く繋がった。
「……いいか?」
リョウが問う。私は頷く。
ゆっくりと、リョウが動き出した。
「ん、あ、あ……あっ」
彼の動きに合わせて、唇から声が漏れた。一気に身体の深奥から潤みが溢れだし、彼を受け入れたのが、自分でも分かった。リョウが動くたびに、頭の中で火花が散る。
リョウは私の乳房に顔をうずめ、先ほどから何度も愛撫した乳房の先端に舌を伸ばした。その刺激に私は、もう調節も我慢もすることができなかった。自分の内側がもう痛みを覚えていないことにすら、気づけなくなるほど。
リョウの汗や吐息が自分に触れるのを、高揚していく五感が心地よく受け止めている。
彼は私を強く求め、私はそれに応えた。何度も。何度も。
しっとりと汗ばんだ体を寄せ合い、シーツにくるまる。火照った肌にコットンの肌触りが心地よかった。
リョウの体は古傷だらけだった。それは目で見て知っていたけれど、実際に手で触れて凹凸を確かめる。
「傷だらけだね」
「まあな」
二の腕に、少し大きな傷があった。
「おまえに付けられたんだよ、それ」
傷を撫でていると、不意に言われた。
私の爪先が、かつて彼の肌を切り裂いたことを思い出した。ボロボロの胴着を纏い、下駄ばきで高級レストランに乗り込んできたリョウの必死な瞳が、蒼く燃えていたことも。
「…痛かったでしょう」
「俺も随分殴っちまったからなあ。おあいこだ」
私は堪らなくなって、その古傷に口づけた。
もう10年も前のことで、確かにリョウの言う通り、私が彼にこっぴどい負け方をしたのに、それでも胸が痛かった。誇りをどぶに捨てた時間が悔しかった。
リョウの手が動いて、私の顎を支えた。口づけが降ってきた。
「縁は不思議だな」
私にはわからない言葉で彼が呟く。
「なに?」
「…いや」
リョウは薄く笑って私の髪を梳き、今度は私にも分かる言葉で言った。
「今日だけじゃなくて、ずっとそばにいてくれないか。お前はイギリスにいるし、俺はアメリカにいる。わがままを言っているのは分かってる。でも、俺はお前が大切なんだ」
「………リョウ」
彼がインタビューで発した「大切な友人」という言葉の意味を、分かっていたつもりだったが、少し、過少に見積もっていたようだった。
ここまで言われるとは思わなかった。そう来ましたか、という感じだ。
けれど、唐突だとも、思わなかった。
そう、彼の行動も今にして思えば少し、今までとは違った。
日本に来いという電話をかけて来た時から、彼の中でも何かが決まっていたのかも知れなかった。全くそれに考えが及ばなかったのは、私自身、自分の気持ちばかりに気が向いていたせいだったのかもしれない。
断る理由はなかった。ただ、少し調整が必要だ。何せ30歳を過ぎれば、いろんなことがある。
「…ジャンが大学院を出てからでもいい?」
「もちろん」
リョウは真面目に頷く。
「俺も随分お前を待たせたみたいだ。そのくらいたいした時間じゃない」
「しょってるね」
私は声をあげて笑った。
「でも、そうだろ?」
「…………そうだね」
「待たせて悪かった」
リョウはもう一度私に口づける。リョウのキスは優しい。
優しい男なのだ。改めて思った。
「墓参りは延期するから、明日も桜を観に行かないか」
優しい男が、意外なことを言ってきた。
「罰当たりだね」
「デートのためだ。ご先祖さまも、分かってくれるよ」
リョウはそんなことを言いながら、私をシーツごと抱きしめる。
明日も、彼と桜を観に行く。
きっとこの先も、何度も観るだろう。
自分でも驚くくらい、嬉しかった。
私はシーツに包まれたまま笑う。脳裏に満開の桜が、よぎった。
fin.
2021.5.1 pixivにて初出
龍虎〜BURIKI〜餓狼〜MOW という私の妄想タイムラインでのお話。
リョウがBURIKI-1で優勝して………というスーパー妄想癖なお話です。このゴールがあるのを前提に、これからも色々書いていこうというのが妄想タイムラインでの私の基本姿勢かもしれません。結局この世界観でもキングさんをイギリス在住にさせてしまった。公式の設定の強さには勝てないな〜コロシアムはお台場、ホテルはコンラッド東京、デートは千鳥ヶ淵です。上野公園にしようかとも思いましたが千鳥ヶ淵の桜は本当に美しいので。
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2022.8.27追記。
この小説が、時を追うごとに物語群の中で分水嶺になるというか、この小説を目掛けて過去の話はできていくし、この小説から未来の話もできていくようになった。自分の中ですごく大事な小説になった。
2023.10.29 一部加筆しました。