だが、傘をさすものは少ない。
ロンドンの雨は、空にぽっかり穴が開いたように突然降り、その穴が閉じるかのように突然止む。天の穴の開閉スイッチの番人はひどく気分屋で、人々は彼の気まぐれと長いこと付き合ってきた。この霧雨は決して強くなることもなく、すぐに止むことを、ロンドンの市民は知悉しているのだった。
そんなわけなので、もこもことしたダウンジャケットや、分厚いウールコートに雨の雫を滲ませるのを全く意に介さず、紳士淑女たちはこれから始まるナイトタイムへ向け、軽やかな足取りでストリートを闊歩していく。ここはロンドン、ソーホーからリージェント・パークの中間あたり。世界に名だたる大都市のほぼど真ん中だけあって、人々の流れは多く、またもう日も暮れてはいたけれども、街灯やネオンサインが人々の足元までをもくっきりと照らし出していた。
地下鉄の駅から地上に出たひと組の男女が、その寒さに身震いする。リョウとユリの兄妹であった。
「寒いね~。もう、真冬だね」
リョウの傍らで、ユリが身体を縮めた。ピンクの光沢のあるダウンジャケットを着込んで、ニット帽をかぶり、足元も内側にボアの入ったブーツと、相当の重装備だが、それでもまだ寒そうである。
「全くだなあ。サウスタウンが温かすぎるって云うのも、あるだろうが」
答えた兄もまた、これからスノーボードにでも出かけるのかと問われそうな厚着ぶりだった。
ふたりとも、携行してこなかったか、諦めたものか、もともと頓着しないのか、傘は差していない。背中に大きめのバックパックを背負い、手には土産物だろう、ショッピングモールのショッピングバッグを携えている。
彼らが暮らすサウスタウンは、合衆国の東海岸、しかもかなり南に位置している。この地は年中温暖で、冬でもコートなど要らない日もあるほどだ。そんな彼らが、一転して年間の平均気温が10度そこそこのこの都市にやって来てしまったのだから、寒さをとりわけ厳しく感じるのは至極当然なことだった。
「サウスタウンなんて、まだ半袖の人いるのにね」
うう寒い、と云いながらユリは兄の影に隠れた。
「こら、俺を風除けにするんじゃない」
「だってえ~」
「ほら、着いたぞ」
兄妹は足を止めた。
地下鉄の駅で云うならオックスフォード・サーカスの周辺。ロンドンいちの歓楽街、ピカデリー・サーカスからはやや遠いが、アパレルのショップやレストランが軒を連ねる賑やかな一帯である。石造りの建物の1階に、彼らの目指す場所はあった。「Illusion」と、繊細だが印象的なフォントで描かれた看板が、スポットに照らされて浮かび上がっている。
ドアをカランカランと開けると、高い天井からの間接照明が、レンガづくりのシックな壁を浮かび上がらせている。開店準備はほとんど完了しているようだった。
「いらっしゃい。待ってたよ」
カウンターの奥から、金髪の女性が声を掛けてきた。
云わずと知れたキングである。キングはカウンターから出てくると、ユリと再会のハグを交わした。
「濡れちまってるじゃないか。傘さしてこなかったのかい? サリー、タオル持ってきてくれる?」
キングはウェイトレスのサリーにそう声をかけた。彼女は「了解」と明るく頷くと、パントリーの奥に消えた。
「平気ですよ、キングさん」
「風邪ひいちまうよ。あんたもね、リョウ」
サリーからタオルを受け取ると、キングはふたりにそれを手渡してくれた。確かに、彼らのアウターも頭髪も、冷たい水滴がヴェールのように覆っている。
「久しぶり、ユリ、リョウ」
親しげに声をかけられ、ふたりは声の主を見やった。キングの弟のジャンが、カウンターのスツールに腰掛けて足をぶらぶらさせている。少し見ない間にまた背が伸びたようだ。声も、かわいらしいボーイソプラノのそれでは無くなり始めている。
「おお、元気か、ジャン」
「元気だよ!」
リョウは大股でジャンのもとに近付くと、手にしていたショッピングバッグから、包装紙に包まれた大きめの箱を取り出した。
「ちょっと早いが、クリスマスプレゼントだ」
「うそ! ほんとに!?」
ジャンが顔を輝かせる。
「開けていい?」
「家に帰ってからにしときな」
と、キングが大はしゃぎの弟を嗜めた。
「お行儀悪いよ、ジャン」
「だって、すっごい大きいよ」
「大きさは関係ないだろ」
「でも……駄目? お姉ちゃん」
弟のスカイブルーの瞳が、まるで捨てられた子犬のような色合いで姉を見つめた。
キングは、ふ、と肩から力を抜く。
「しょうがないね。もうすぐお店開けるから、それまでに片付けるんだよ」
「やった!」
ジャンは大喜びで、しかし慎重に包装紙のテープをはがしていく。ユリが「何だと思う~?」とはやし立て、ジャンも「焦らせないでよ」と頬をバラ色に染めて、とても若いふたりのサンタからの贈り物を開封している。
「悪いね、毎年毎年」
キングがリョウに、小さな声で謝意を示した。
「いいのさ。おやじの道楽みたいなもんだと思ってくれれば」
リョウはそう云って、笑う。
それは、キングがイギリスに渡った年の秋のことだった。
木箱に入った空輸の荷物を、彼女がサカザキ家に送ってきたのである。
荷物には封筒が同封されており、便せんには洒脱な文字で、こうしたためてあった。
“Messieurs et mademoiselle,
今年の新酒をお送りします。
ご賞味あれ。”
それは毎年毎年秋に出荷される、ボジョレー・ヌヴォーであった。ワイン通を自認するキングの選んだものだけあって、それは新酒特有の硬さと青さを残しつつも、香り高かった。
キングは、何かと世話になったサカザキ一家に対する礼のつもりで、「イリュージョン」にワインを卸してもらっているシャトーから数本、彼らにそれを贈ったのだった。けれども、サカザキ家も貰いっぱなしと云うわけにもいかない。あれこれ考えた末、「ジャンにクリスマスプレゼントを贈ろう」と云うことになった。
それ以来、11月と12月には、合衆国と大英帝国の間を、ワインと、何かしらのおもちゃが行きかうことになったのだ。
「ジャンはタクマのことを、あしながおじさんみたいに思ってるよ」
姉の薫陶か、ジャンの資質か、年明けにはニューイヤー・カードがわりのように律儀に、ジャンからのサンキューレターが届く。最初は簡単な礼状だったのが、いつの間にか少年の年に一度の近況報告のようなボリュームの手紙になりつつあり、それをいちばん楽しみにしているのは、ほかでもないタクマだった。成長を見守れなかった息子の代わりに、親のない少年をタクマなりに気にかけているのかもしれなかった。
「足は長くないがな」
と、リョウは笑う。
「すごい! PS3だ!」
ジャンが歓声を上げる。
「欲しかったんだ。ありがとう!」
「ソフトもあるよ」
「うそっ! 本当に?」
「今から、家に帰って、キングさん待ってる間に、やろうか?」
「やる、やる!」
店の照明の明るさが、すこし落ちた。フロアが一気に酒場の空気になる。スピーカーから、ジャズの低いベースラインが流れ出した。
「さあ、開店だから」
キングがジャンの肩を抱き、弟を促した。彼女の表情は優しさを湛えた姉のものだったが、すぐにでも敏腕オーナーの顔つきに変わりそうであった。
「うん。じゃあね、お姉ちゃん。お仕事がんばって」
「ありがとう」
ジャンは姉の頬に軽くキスをする。
プレゼントを元通り(というには、だいぶ包装紙はぶかっこうになってしまっていたが)に袋に戻し、ジャンはコートを着込んだ。
「私もジャンと遊んでるね」
ユリもそう云って、コートを羽織る。
「悪いね」
「ううん、またあとで!」
ユリとジャンは連れだって店を出た。キングがこうやって店を切りまわしている間、ユリはジャンと一緒に夕食を摂ったり、気が向けば勉強を教えたりして、相手をしてくれる。たまのこととは云え、それはキングにとっては助かることだった。
「あんたは飲んでくんでしょ」
キングはリョウに目線をやって、笑った。リョウはすでに、カウンターの隅に腰掛けている。ひとりでふらりとやってきたときの、お決まりの席だった。
「ボジョレーの解禁まで居座るつもりだぜ」
と、リョウは頷く。
そう、今日は11月の第3水曜日。
ボジョレー・ヌヴォーの解禁日の前日であった。日付の変更と共に解禁日となるので、この日はどこのバーもパブも、朝まで盛り上がるのが常である。
毎年ボジョレーを送ってくれるのに、一緒に飲めないのはもったいない。キングさんと一緒に、年に一度の酒飲みたちのお祭りを過ごしたい。
そんなことをユリが云ったのが、しばらく前。
折角だからジャンへのクリスマスプレゼントも直接手渡してしまおう、とか、宿はどこそこに取ろうとか、そんなことを さくさく決めていくユリを、傍で他人事のように思っていたリョウだったのだが、プレゼントの買い出しやら、チケットの手続きやらに引っ張り回され、気がつけば同行することになっていた。
「ジャンが寝たらユリも戻ってくるだろ」
「そうね──あら、いらっしゃい」
ドアベルの音がカラカラと響いて、「寒い寒い」と云いながら客が入ってくる。馴染みなのか、キングも砕けた口調で接していた。その中のひとりの中年男が、リョウの顔を見て親しげな声をあげた。
「兄ちゃん、前に一緒に飲んだことなかったっけ?」
「──ああ!」
男の顔には、見おぼえがあった。以前「イリュージョン」に立ち寄ったとき、何かの拍子で話が合い、一緒に飲んだ。随分深酒して翌日は二日酔い気味だったが、楽しかった。その記憶がよみがえってくる。
「あんたもボジョレー待ちか?」
「ああ、そうだよ」
「俺らもさ。一緒に飲むか?」
「ぜひ、お願いしたいね」
さあこっちに来いよ、と手招きされ、リョウは自分のグラスを持って男たちの輪の中に入った。「Cheers!」と声を掛け合いながら乾杯を交わす。男たちはこの辺りのオフィスに勤めているようで、みなスーツやジャケット姿であった。年はリョウよりも20歳ほどは上だろうか。
「兄ちゃん、この辺では見ない顔だな」
「普段はアメリカに住んでるんだ。ここのオーナーと友人で、たまに来るんだ」
「なんだ、キングの男か、あんた」
唐突な言葉に、リョウは面食らう。
「い、いや、そう云うんじゃない」
「隠すな隠すな。あの姐さんは、ここらじゃ他にはお目にかかれないくらいの美人で、独身男はみんな狙ってる。でもどんな男に口説かれても、眉毛ひとつ動かさないんだぜ。安心したか?」
「いや、安心も何も、俺は」
「まあまあ、飲んどきなって」
英国の紳士たちはひどく酒に強い。彼の目の前には次から次へと、英国名産の色とりどりのビールが置かれていく。
「じゃあ、この幸せな色男に乾杯だ。乾杯!」
「乾杯!」
「だから、違うって……」
気がつけば店内はすでに6割がたの席が埋まっている。人々は笑い、さんざめき、始まったばかりのナイトタイムを心の底から満喫していた。
バーの中はひっそりと静まり返っている。
ウェイトレスのサリーと、双子のエリザベスも早々と掃除を終えて、仕事場を去っていた。
照明が作業用にと強められたカウンターの中で、キングはワイングラスを磨いている。その手さばきに乱れはなく、磨きあがったグラスにも一点の曇りもなかった。
もう、夜中の3時である。
リョウはカウンターの隅でぼんやりとキングの立ち働く様子を眺めている。その横ではユリが突っ伏して、すやすやと寝息を立てていた。彼女の肩にはピンクのダウンジャケットが掛けられている。
日付が変わるころ、カウンターの奥からバーの女主人は、満員の客に声をかけた。「さあ皆さまお待ちかね、今年の新酒の時間ですよ」。グラスに注がれた赤ワインが、青々しい香りを伴って客にふるまわれる。人々は拍手喝采でオーナーの心にくい気配りを褒め称え、50年に一度の出来、と前評判の高かったボジョレー・ヌヴォーを味わった。
ジャンが寝たのを見届けて、ユリが再び「イリュージョン」に戻ってきたのはちょうどそんな時間。バーの中が最高潮に盛り上がっていたときであった。可愛らしいヤマトナデシコの登場に、リョウと一緒に飲んでいた男たちも喜び、宴席は果てることを知らないかと思うほどに賑やかなものとなった。リョウも、久々に強かに飲んだ。
だが、そんな楽しい時間にも終わりは訪れる。
ひと組、ふた組、と客は去り、残ったのはリョウとユリだけになった。
「おまえ、飲んだのか? ボジョレー」
カウンターの向こう側の彼女に、リョウは話しかけた。
「医者の不養生って言葉があるだろ。全く、昔の人は正しいことを云うよね。──飲んでないよ。今日は目が回るほど忙しかったからさ」
キングは仕事の手を止めた。ちょうど区切りが良かったのか、おしまい、と呟いて、腕まくりしていたシャツを元に戻す。
「今年のは、結構旨かった」
「そうかい? ちょっと舐めてみようかな。あんたもどう?」
グラスを向けられ、リョウは頷いた。
「お相伴させてもらうよ」
オーケー、とキングが請け合って、リョウの目の前に新酒の注がれたグラスを滑らせる。
「乾杯」
チン、と澄んだ音を立て、グラスが触れ合う。キングの白い喉がのけぞり、葡萄酒を嚥下していくのを、リョウは何となく見守った。
「どうだ?」
「うん、いいんじゃない? 2~3年後が楽しみだね」
そう云ってキングは笑った。
「ユリのやつ、“キングさんと一緒にボジョレー飲む!”って張り切ってたのに、結局寝ちまったな」
リョウは傍らで安らかな呼吸を繰り返す妹に目線をやって、しょうがないなあ、と云いたげに肩をすくめた。
「戻ってきただけ偉いよ。絶対ジャンとゲームに夢中になって、来ないと思ってたから」
「それもそうか」
キングはカウンターの後ろに寄りかかり、グラスをくるくるとまわした。いかにも堂に入っている。さすがに疲れているのか、すこし気だるそうな表情は、まさに酒場の女主人めいてどこか蠱惑的だった。
「──ああ、そうだ」
唐突に立ち上がり、バックパックの中をごそごそと漁る友人の姿を、キングはそんな姿勢のまま見守った。やがて、「おお有った有った」とかなんとか呟きながら、リョウが戻ってきた。手にはリボンをかけられた箱がちんまりと収まっている。
「何?」
「いつも、ジャンだけじゃ悪いからな。クリスマスプレゼントだ」
「えっ?」
キングは思わず、動きを止める。鼓動がやけに早くなった。
カウンターの上に、そっと置かれたその包みを、キングは凝視した。
「開けていい?」
「ああ」
キングはその包みに手を伸ばす。
手が震えているような気がする。
どんな顔をしてそれを受け取ればいいのか、キングには測りかねた。結局、無表情を装いながら、リボンをほどいた。セロテープを爪の先でひっかいている時間が、ひどく長く感じられる。
乾いた音を立て、包装紙が化粧箱から離れた。化粧箱を開ける。
「……」
小ぶりのワイングラスだった。
繊細なカットが、店内の照明を吸いこんで、宝石めいた輝きを放っていた。
「……綺麗。ありがとう」
「いや、大したものじゃないんだ。いつも世話になってるしな」
リョウはそう云って、趣味に合うかは解らないが、と付け加えた。
彼の表情をキングは注意深く見たが、全くもっていつものそれと変わらなかった。つまり、穏やかな笑みを浮かべ、落ち着き払った、そんな顔だ。
キングの胸に、何とも云えない感情が広がる。それをどう定義してよいのか、キング自身にもよく解らなかった。どちらかと云えば落胆のような気がするが、安堵ととれなくもない。そんな不可思議な気持ちだった。やれやれ、世界は謎だらけだよ、と彼女は内心で嘆息した。
「好きだよ、こういうデザイン」
「そうか。そりゃよかった。おまえは趣味が良いからな。ちょっと心配してたんだ」
リョウはそう云って頭に手をやり、ブロンドをくしゃくしゃとかき混ぜた。
「これもサカザキ家からのプレゼント?」
「いや、違うよ。俺からさ」
「あんたから?」
「そうだよ」
リョウは首肯して、ワイングラスを口に運んだ。ぬるくなるとやっぱり苦いな、とひとりごちながらボジョレーを開けている。
「何でそんな、気を利かせてくれたんだい?」
キングの問いに、リョウは顔をあげた。戸惑いが彼の瞳に浮かんでいる。
「何でって……」
リョウは言葉を切った。
彼はしばらく、そのまま、黙っている。キングも言葉をかけそびれた。
リョウは少し気恥ずかしげな顔をして、目線をそらした。
「理由なんて無いさ」
少しつっけんどんな物云いは、あまり普段の彼らしいものではなかった。
そんな彼の様子を見守っていたキングの表情が緩む。
「御礼をしないとね」
「いいよ、礼なんて」
「そう云わないでよ。……本当のクリスマスに、こっちに来れる? 用意しとくよ」
あくまで軽い調子で云ったつもりだったが、少し緊張したか、語尾がかすれた。
「ああ、そうだな……たぶん来れると思う」
リョウの声が、低く答え、
「……いや、必ず行くよ」
念を押すように、彼はそう言葉を続けた。
きっとこの男のことなので、クリスマスにやって来たところで、こうやってのんびりと酒を飲んでいく、それ以外の何があるわけでも無いだろう。
そして、キングの中に、落胆のような安堵のような、あのよく解らない感情を残して行くに違いない。そんなこととは露とも知らずに。
けれどもまあ、大西洋を渡って来てくれるだけ、よしとしようか。
「もう一杯どう?」
「ああ、貰おうか」
キングは軽やかな手つきで、リョウのグラスに新酒を注ぐ。
沈黙が下りた。
気まぐれな空の番人がまた、空のふたを開けたようだ。パラパラと云う雨音が二人を包む。大都会の中なのに辺りは静かで、まるでこの世の果てにいるような気さえしてくる。
どこかぎこちない空気。それはたとえば、まだ青い新酒のように。
いつか本物の葡萄酒のように、醸され、豊潤な香りを放つのだろうか。
(解らないねえ。何せ、世界は謎だらけだから)
この霧の都では、明日の天気だって予想できないくらいだ。
──麗しの女主人は、唇の端に薄く微笑を浮かべた。
fin.
2021.4.23 pixivにて初出
本サイトから移管した小説。このもだもだ感がいいなあと思っていたあの頃(多分10年前くらい)。5000hit御礼としてリクエストを頂戴して書いた作品のような気がします。今続編を書くならR -18にしちゃいそうです