龍と霞

五十畳はあろうかと思われる板張りの道場。
檜の床は艶やかに磨かれ、まるで鏡面のようですらある。
江戸は元禄のころ、狩野派の絵師が描いたと云う由緒を持つ衝立の前に、藤堂香澄は黙然と座していた。
呼吸を整える。呼吸は血脈となって体中を巡り、肉体と精神が平静に和する。それらは、周囲の空気に溶け込んでいく。
視線を床、壁、天井に移す。
ふと、伝来の衝立に目が行った。
いかにも太平の時代に描かれた、磊落な画風が、水墨画という技法に迫力を与えている。
槍衾のような竹薮から顔を突き出し、天に吼える猛虎。
天にあって目を爛々と光らせ、地を睥睨する龍。
(──龍。)
香澄の統一された精神が、揺らいだ。
龍は麒麟にも似た黄金の鬣を持つと云う。煌々と光る瞳は、雷にも似ると云う。
彼女の脳裏によぎったのは、龍のふたつ名を持つひとりの男。
その男は、まさに龍だった。燃えるような金髪と、稲妻のような青い瞳を持っていた。
初めて会った時のことは、今でも鮮明に覚えている。
消息を絶った父を追い、手がかりを掴もうと北米を旅していたとき、香澄はその男に出会った。
父を破ったと云う話は既に知っていた。彼が極限流空手、と云う武道の達人であることも。
ただ、それは畏れるには値しないことだった。香澄には父から伝えられた藤堂流、と云う合気道の技がある。
倒し、父の手がかりを得る。香澄は気負っていた。

「父様はお前達に敗れて以来、行方不明になっている。父様はどこにいる?」
「あの古武道のおっさんの娘だって? 悪いが居所なんて知らないぜ?」
「とぼけても無駄だ。お前を倒してでも、父様の行方を聞き出してやる! 覚悟……よろしいな!」

だが、香澄は敗れた。
しかも、「語学学習のためのホームステイ」と欺いて家を出た娘の真意に気づいた母に追いつかれ、咎められ、再度の勝負を挑む事も叶わず、その場は引かざるを得なかった。父の居場所を探し出すことも出来ず、あげくに母に平手打ちをされてしまうと言う、みっともない姿を負けた相手の前で見せる羽目になった。
全てが最悪の結果に終わったといっていい。しかし。
母に首根っこを掴まれるようにして引きずられていく最中、香澄はリョウの前に対峙し、彼をキッとにらみつけた。リョウは先ほどの戦いのときとは打って変わった穏やかな表情で、この暴走機関車のような娘を眺めている。
香澄は額の鉢巻を外し、リョウに押し付けた。
「再戦の証にこれをあずけておく!」
香澄は勢い込んで云った。
「私はこれを取り戻すため、必ずお前の前に戻ってくる。そのときにもう一度戦ってくれるか?」
リョウは呆気に取られたような表情で、香澄を見た。だが、次の瞬間には彼の表情は綻んだ。
「よし、約束しよう。」
「……約束だぞ。絶対にもう一度。」
「ああ、約束だ。」
「絶対だぞ。逃げたりしたら承知しないからな!」
「ああ、わかってるよ。」
「絶対の絶対だぞ!」
香澄に何度もそう念を押されたリョウは、笑いをかみ殺すような表情で頷いた。
「ああ、いつでも来い。俺たちは、サウスタウンにいる。」

──サウスタウン。

明日からの夏休み。
香澄は母親を説き伏せ、またもやアメリカ行きを決めていた。
母・志津子は渋い顔をしていたが、姉の瑞穂の後押しもあり、最後には承諾してくれたのだ。
(リョウ・サカザキ……! 絶対に、倒してみせる!)
あの日に香澄の記憶の焦点が合う。
リョウが重大な隙を見せた一瞬を──香澄はイメージの中で、とらえた。
あの日の自分は、その隙を見ていながら何も出来なかった。
けれど、今なら。
(はあっ!)
イメージの中で、香澄はリョウの鳩尾に、痛烈な掌底を叩き込んだ。
幻影のリョウは、その場に頽れる。
今なら、この一撃を叩き込める。そのために香澄は、死に物狂いで修行を積んだのだ。
娘は閉じていた瞼を開ける。
「絶対に勝ってみせる!」
小声で、呟く。しんとした道場の中に、彼女の囁きが響いた。
香澄は立ち上がった。衝立に目をやる。龍は相変わらず、煌々と光る目で虎を見下ろしている。リョウ・サカザキの面影が重なる。
何故か、それは戦っているときの厳しい面差しや、鋭い体術ではなく、戦いを終えたあとの穏やかな笑みを浮かべた姿だった。
「……」
香澄は唇を噛む。何か、調子が狂う。
ふと、明日が待ちきれないような気がした。心はひどく浮き足立っていた。戦いの予感ではない、何か別の感情が、彼女の心をざわつかせていた。

◆◇◆

サウスタウン南西、ポートタウン。
その中央部に林立する高級レストランの中に、香澄の父、竜白が経営する料亭「かるた」と寿司店「繁盛」はある。本来の「日本料理」とは大きくかけ離れてしまった代物を臆面もなく「ジャパニーズ・フード」と云い切る手合いの店とは違い、この2店は料理人もプロの日本人を雇い入れ、店の内装も日本の格の高い店を再現したものだった。そのため、サウスタウンの金持ちに珍重され、常に盛況である。
行方をくらませる直前、父はふたつのダイニングの経営母体である会社の株式を母に委譲した。その株式の配当金は年間で相当な額になる。香澄の住まう主無き藤堂家が、広大な敷地や家屋敷を維持できているのは、父が新天地で興した事業のおかげであった。
「繁盛」の店長は、香澄が北米に滞在するときのよき相談役となってくれている。今日も香澄をエアポートまで迎えに来てくれていた。
「藤堂さんの行方については、まだ手がかりはありません。お店の常連さんで、その道に詳しい方もいらっしゃるんですが、皆目わからないそうです」
店長は残念そうに、そう香澄に告げた。
「そうですか……」
香澄の表情が曇る。装いは、スキニージーンズに丈の長いTシャツにスニーカー、そしてバックパックという、典型的な貧乏旅行スタイルである。
「そう言えばこの間、極限流の総帥が店に来ましてね」
「極限流の?」
「ええ。タクマ・サカザキ。ご存知ですか?」
竜白とタクマとの間に、過去、確執があったことを知らない店長は、何の気なしに香澄に問う。
「知ってます……」
香澄は眉間にしわを寄せて答える。
「藤堂さんのことを聞いたんですが、知らないようでした」
「そうですか。ところで、極限流の道場はどこにあるんですか?」
「サウスタウンベイの方ですね。静かで、いいところですよ」
「わかりました」
香澄は、店長に礼を告げ、「繁盛」を出た。
サブウェイは危険なので避けた。バスを使ってサウスタウンベイの方面まで向かう。
ポートタウンは繁華街だが、治安が良くないエリアだ。街行く人々もどこかすさんでいる。それが、徐々に街の様相が変わってきた。一軒一軒の家の敷地は広く、人々の身なりもよく、表情は穏やかである。
バスはやがて、ロータリーに着いた。乗客はみな、下車を始める。どうやら、ここが終点のようだった。
その辺を歩いている親切そうな老婆に声をかけ、「繁盛」の店長に書いてもらったメモ用紙を見せる。
“Would you teach me where is KYOKUGEN KARATE SCHOOL?”──極限流空手の道場はどこですか──。
身なりのよい老婆は、薄く色づいた眼鏡ごしにそのメモを見ると、
「私はちょっと解らないけど、あの人に聞いてみましょう!」
と──英語が苦手な香澄には半分くらいしかその文意はわからなかったのだが──親切にも云い、数人連れの若者たちに声をかけた。何やら話していたが、やがてにこにこしながら戻ってくると、香澄の手を引いて歩き出す。
大通りを行くこと数分、ストリートを2つほど曲がったところに、目的地はあった。
「ありがとうございます」
と頭を下げる。老婆は気にしないで、と云ったような笑顔を見せると、器用にウインクをして去っていった。
香澄は老婆の後姿を見送り、やがて、振り返る。
高い塀に囲まれた屋敷。屋敷、と云って差し支えないだろう。
どのような手段を用いたかは不明だが、この北米大陸で、純和風の作りになっている。土塀の上には軒が張り出し、数奇屋門の横には燻されたような深い色合いの一枚板の看板が堂堂と作りつけてある。
──極限流空手道場 北米本部。
その横に、英字で「KYOKUGEN KARATE ORGANIZATION THE NORTH AMERICA HEADQUARTERS」とある。
香澄は拳を握り締めた。
門に手をかける。引き戸は、あっさりと開いた。
門を潜る。
砂利を踏みながら歩く。眼前に道場がある。白い漆喰壁と、切妻屋根には黒い瓦が葺いてあり、鬼瓦が香澄を見下ろしていた。
道場は静謐である。
背伸びして、格子窓を覗き込む。中に人の気配は無い。
香澄は気を取り直し、辺りを見渡した。奥に、別棟がある。どうも母屋のようである。
そちらへ向けて歩く。
母屋には、生活の匂いが漂っている。広々とした庭の半分ほどを占めている家庭菜園にたわわに実るキュウリやナス、トマトやインゲンを目の端に捕らえながら、少女は三和土に足を乗せる。呼び鈴を鳴らすと、ややあって、娘の声がドアホン越しに応えた。
“Hello?”
日本にいるのかと勘違いしてしまうこの環境の中で、飛び出てきた異国語に面食らいながら、香澄はたどたどしい英語で答えた。
「え……えっと、あ、あいあむ かすみ とーどー! りょう さかざき いず あっと ほーむ?」
“Wait a minute.”
ガチャン、と音がして、ドアホンは通信を途絶した。
しばらくそこで待っていると、玄関の引き戸が開いた。
黒髪と黒い瞳の、香澄と変わらないくらいの年頃の少女が出てくる。黒目がちな瞳と彫りの深い顔出ちが印象的だ。
「トードーさん?」
日本語で問われ、香澄は頷いた。娘……ユリ・サカザキが云う。
「えーっと、もう1回日本語で云ってくれるかな?」
「わ、私は藤堂香澄と申します。師範代にお目通り願いたい!」
「師範代って、お兄ちゃんのこと?」
「その“お兄ちゃん”が、リョウ・サカザキなら、そうです!」
マジメくさった香澄の物言いをほほえましく思ったか、ユリの表情が和らいだ。
「お兄ちゃんなら、いますよ。どうぞ、あがってください」
香澄は、中に入った。
よく磨かれた板張りの廊下は、夏なのにひんやりとしている。
引き戸で隔てられた部屋は、ダイニングであった。日本でもよく見かける西洋風だ。その奥の部屋に向かって、ユリが声をかける。
「お兄ちゃん、お客さんだよ」
香澄の鼓動が、大きく波打った。
ユリが少女を奥へと促す。そこはまたもや日本風の座敷になっている。
ちゃぶ台(と云うにはやや重厚だが)を囲むようにして、ふたりの若者が座っていた。
かたや、リョウ・サカザキ。
かたや、ロバート・ガルシア。
極限流の龍虎と称される手練を眼前にし、香澄の緊張はいやがおうにも高まる。
「君は──」
リョウが口を開いた。
香澄の胸に、奇妙な感情が去来する。
それは、喜び、のようなものであった。
頬がカッと我知らず熱くなる。
「リョウ・サカザキ! いつかの鉢巻を取り返しに来たぞ!」
香澄は、不可思議な気持ちを振り払うように声をはりあげた。
「いつぞやの、元気なお嬢ちゃんやないか」
リョウの傍らのロバートが、のんびりとした口調で云う。
「お父上は見つかったか?」
と、リョウが尋ねてきた。香澄は首を横に振る。
「大変やな。せやけどお嬢ちゃん、ワイらかてあのオッサンの行方はよう知らへんで」
「今日はそれを聞きに来たんじゃない」
香澄にとっては聞き取りに骨の折れる、ロバートのイタリア語のアクセント混じりの英語に、香澄はたどたどしい英語で答えた。
「父様の行方は私自身で探している。今日は勝負を申し込みに来た」
「勝負ゥ?」
「そうだ。リョウ・サカザキ、ここで他流試合を申し込む。よろしいな?」
「──しょうがないなあ。折角いいところなんだが……ロバート、ちょっと待ちだ」
リョウはちゃぶ台の傍らの将棋盤に目をやりながら、立ち上がる。
ロバートも一緒に立った。
「ほんなら、ワイが審判したるわ」
「お父さん呼んでくる? お兄ちゃん」
「どうする? 藤堂さん」
リョウに問われ、香澄は頷く。
「勿論、ご同席願いたい!」
「じゃあ、呼んでくるね」
ユリはとんとん、と足音を響かせながら茶の間の奥に消えた。

北米の夏は暑い。空調の無い道場もまた、蒸し風呂のようである。
だが、そこに座している彼らはみな一流の武道家だった。そのような暑さをものともせず、中ほどに端座している。
香澄は髪をポニーテールに縛り、胴衣をたすきがけにしていた。紺色の袴が凛凛しい。
対するリョウは、初めて相対したときと同じ、オレンジ色に染め抜いた道着を身につけている。
脇からふたりを見守るのは、タクマとロバート、そしてユリ。
みなそれぞれ、白い道着を纏っていた。
「勝負は一本、時間無制限」
タクマが朗朗と宣言する。
対峙するふたりは立ち上がり、それぞれに構えた。
「はじめ!」
香澄は意識を集中する。
自分に言い聞かせる。

──あの時より、私は強くなっている。

ツ、と香澄が仕掛けた。
「てやあっ!」
「むっ!」
リョウは正面から受ける。
香澄の掌底を流して、拳に気力をためた。
「虎煌拳!」
気の力が注がれた拳が、香澄に迫る。
「くっ!」
香澄はすんでのところで避けた。掠った皮膚がちりちりと痛む。驚くべき気の練り上げかた──香澄は焦った。
この男、前より強くなっている!
「食らえ……重ね当てっ!!!」
香澄もまた、気を練って放つ。
だが。
リョウはそれを、真っ向から受け止め、そして。
彼の拳が香澄の鳩尾を強打する。
息が止まる。
極限流虎砲──

だんっ!

床に叩きつけられ、背骨が大きく軋んだ。
「それまで!」
タクマの声が響き渡る。
「ま、まだまだ……!」
香澄は立ち上がろうとするが、リョウに制された。
「ユリ、アイスノン持って来てくれ」
「はーい」
ユリが立ち上がって、奥に姿を消す。
「腹は危ないからな」
「ま、まだ私は戦える!」
「無理するな。貧血を起こしてるはずだ」
リョウの云うとおりだった。
香澄はまたしても、敗れた。

◇◆◇

それからも、香澄は学校の長期休みを利用して父親探しのためにサウスタウンを訪れた。語学学習も兼ねてと言うことで母を説き伏せ、いつも「繁盛」の店長の家に世話になった。また、機会があれば極限流の道場にも顔を出した。
リョウだけではなく、ユリやロバートと手合わせすることもあった。負けることの方が多かったが、たまには一本取れたり、いいところまで立ち回れることもあり、それが少女の励みになった。
武道だけではなく、英語でのコミュニケーションもそこそこ取れるようになり、ロバートのイタリア語じみた「r」の発音も難なく聞き取れるようになって来て、それも彼女が合衆国で父親の捜索に時を費やすことに自信を与えてくれた。
そんな、5月の初め。
香澄はもはや何度目になるかも分からないほどに訪れた極限流の道場にいた。
勝手知ったる風情で門をくぐり、母屋のドアホンを鳴らす。
「藤堂です! 今日もお手合わせ願いたい!」
“ああ、香澄くんか”
ドアホンの向こうから聞こえてきたのは、珍しくリョウ・サカザキの声だった。
幾度かの訪問を経て、リョウは彼女を「香澄くん」と呼ぶようになっていた。朗らかな声で香澄くん、と呼ばれると、何故だかわからないけれど、香澄はいつも、少し嬉しくなった。
ややあって、玄関の引き戸が開く。
リョウが顔を出した。すでに道着姿である。
「ちょっと前に門下生の午前の稽古が終わったばかりなんだ。今日は親父が留守でね。俺とでいいかな?」
「無論です!」
香澄は頷く。リョウの背中を追いながら、道場へと歩んだ。

──次に香澄が目を開けたとき、飛び込んできたのは、見慣れぬ檜の天井であった。
視界が歪み、ぼやけ、やがて均衡を取り戻す。
「ん……」
鳩尾周辺の鈍痛に香澄が思わず軽くうめく。黒髪の娘が彼女の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 香澄ちゃん?」
「……ユリさん?」
香澄は改めて自分が、和室で布団に寝かされていたことに気がついた
香澄はタオルを抑えたまま起き上がる。吐き気やめまいなどはしない。香澄は改めて己の手足を点検する。特にひどい痛みは無い。
リョウとの手合わせは、またしても香澄の敗北に終わった。初めてこの道場で手合わせした時のように、鳩尾に強かな殴打を食らってノックアウトされたのだ。しかも、自分が成長したと実感していたよりも、さらに、リョウの方がより強くなっていたように香澄には感じられた。
障子の向こうの空が、暗くなっているのに気がついた。何時間こうやって昏倒していたのだろう。
さすがに、今までここまでの痛手をこうむったことは無かった。あんなに稽古に励んだのに、負けてしまった。悔しさが胸に満ちる。
「ユリさん、すみません、ありがとうございました。もう大丈夫なので、帰ります」
云って布団からもぞもぞと這い出る。
そんな香澄に、ユリが云った。
「香澄ちゃん、今日泊まっていきなよ」
「え?」
「アメリカは女の子の一人歩きは危険だよ」
「で、でも、ご迷惑じゃ」
「ぜーんぜん!」
ユリは朗らかに笑う。
「部屋もあるし、ウチ、しょっちゅうお客さん来るから、気にしないで! お父さんもお兄ちゃんもお客さん好きだし、喜ぶよ」
「で、でも……」
「だって、今日のホテルどこ?」
「あ、ホテルではなくて…ホームステイ先なんですが、ポートタウンのそばです」
「あの辺は、夜は危ないよ。ホストファミリーの人に連絡して、今日は泊まって行った方がいいよ!」
ユリに押し切られ、結局、香澄はその日、サカザキ家に泊まることになった。
道衣と袴を脱ぎ、私服に着替えた香澄が茶の間に姿を現すと、そこで将棋を指していたタクマとリョウが口々に体調を気遣ってくる。
タクマが親切にも、竜白の行方の手がかりになりそうな情報を収集してくれていた。それを聞いたりしているうちに、ごはんだよ、と、ユリがダイニングから3人を呼んだ。
「すごい」
香澄は目を丸くする。
食卓に並んでいたのは、サウスタウンではまずお目にかかれない和食の食卓であった。
北米のホームステイ中、父の興した店で、寿司や懐石をご馳走になることはあった。それも純然たる和食であり、非常に舌には懐かしい。けれども、サカザキ家の食卓は、昔ながらの日本の家庭料理そのものが色とりどりに並んでいる。
白米に、豆腐の味噌汁。鰆の西京焼き。里芋の煮付け、空豆の白和え、ほうれん草のおひたし。
「いただきます」
手を合わせて、料理を口に運ぶ。
「おいしい……!」
異国の地で舌の上に乗ったその料理は、だしが効いていてしみじみと美味しかった。
「よかったー。香澄ちゃん、日本食懐かしいんじゃないかと思って」
「すっごく美味しいです! あの、これ、全部、ユリさんが……?」
「そうだよ」
「すごい!」
香澄は目の前の娘を尊敬の眼差しで見つめた。
「この空豆と、ほうれん草、ウチで作ったの」
「そうなんですか?!」
「お兄ちゃんが育ててるんだ」
「えっ」
香澄は驚いてリョウを見た。
「うまいだろ、それ」
味噌汁椀を手にしたまま、リョウがこともなげに云う。
「あ、はい」
「空豆持ってくか?」
「あ、いえ……」
香澄は思わずしげしげとリョウを眺めてしまう。
道場で相対しているときと、普段の彼が全くの別人だと云うことに、少女は薄々気づき始めていた。端的に云ってしまえば、武道を離れた彼は、とても穏やかな人間だった。礼儀正しく、会話の口調も落ち着いているし、何より優しい。同級生の男の子たちとは纏っている空気が全然違っていて、ギラギラしてもいなかったし、青臭くも無かった。
厳しかった父を倒したやつは、どんな鬼のような男かと思っていたのに。
家庭菜園と、リョウ・サカザキ。
全然似合わない、とは思わなかった。むしろ似合う、と思ってしまう。
苗を植え替えたり、間引いたり、水や肥料をやっている彼の姿を想像した。とても様になっていて、香澄は目の前の男が少し可愛らしく思えた。
「はいお父さん、ビールどうぞー」
「うむ、ありがとう」
「おかわりもらうぞ」
リョウが立ち上がって炊飯ジャーの蓋を開ける。何となくその様子を目で追っていた香澄の視線に気がついたか、リョウが香澄を振り返った。
「ん? 香澄くんもおかわり要るか?」
真正面から目が合って、香澄は思わずお茶碗を取り落としそうになってしまった。
「い、いえ! 結構です!」
「遠慮せず食えよ」
「ほんとに! 結構ですから!」
食事は静かに、けれども和やかに進んでいく。
食後にほうじ茶を飲みながら、タクマが香澄に、父竜白のことを話してくれた。香澄は真剣に聞き入った。自分の知らぬ父の姿がおぼろげに垣間見えた。
ユリが香澄ちゃんだけね、と云ってケーキを出してくれた。とても美味しかった。
そんなふうにしているうちに、いつしか香澄の表情は和らぎ、年相応の笑顔がほろほろとこぼれるようになっていた。

サウスタウンという大都市とは思えないほど、サカザキ家の周辺の夜は森閑としている。
香澄は母屋の階下、昏倒したときに寝かされていた和室をあてがわれ、ひとりで横になっていた。
8畳ほどの部屋は、床の間と違い棚、押入れと簡単な文机以外にこれと云った家具も無く、天井高のためもあるのか、広々として感じられた。
慣れない枕のためだろうか。
香澄は中々寝付くことが出来ないでいた。
(水をいただこう……)
香澄は起き上がり、ユリが貸してくれたパジャマの上に、持参していたパーカーを羽織った。
襖を開け、廊下を歩く。
茶の間とダイニングに通じる引き戸から、灯りが漏れていた。
家人が起きているのだ。
引き戸を引くと、キッチンの流しの前に、リョウが立っていた。
「あっ」
香澄は思わず、短い声を漏らす。
「ああ、香澄くんじゃないか」
リョウは笑う。無地の白いTシャツに、アディダスのジャージという、寝間着姿である。手にしたグラスには牛乳が注がれていた。
「眠れないのか?」
「あ、ちょっと喉が渇いて……水をいただこうかと」
「水でいいのか? 麦茶とかジュースもあるぞ。牛乳も」
云いながらリョウが大きな冷蔵庫を開ける。
「あ、じゃあ……麦茶を、ください」
「おう」
リョウはキッチンの棚からグラスを取り出すと、麦茶を注いで手渡してくれる。
グラスを受け渡す瞬間、手と手が触れた。
(うわ!)
みっともないくらいに頬が熱くなるのが、自分でも解った。
リョウに気取られないよう、一気に麦茶を飲み干す。
「ご、ごちそうさまでした!」
「おう、お粗末さまでした」
「こ、これっ、洗って戻しておけばいいですかっ!?」
「ああ、いいよいいよ、洗い桶の中に突っ込んどいてくれ」
「じゃ……じゃあ、おやすみなさい!!!」
顔をろくに上げることも出来ないまま、香澄は逃げるようにダイニングを出た。
引き戸を閉め、廊下を渡り、客間に滑り込む。
そのまま、布団をめくって、頭から被った。
心臓がまだドキドキしている。
リョウの指先の熱が、自分の手に伝染して、燃えるようだ。
その熱が、昼間の道場での勝負を思い出させた。
戦いのイメージは、リョウの稲妻のように閃く青い瞳の残像を呼び起こした。そして、すぐに浮かんでくるのは、打って変わった彼の穏やかな笑顔と、落ち着いた声音。先ほどのリョウの姿が脳裏をよぎる。
「リョウ・サカザキ……」
ポツリと呟いた。
香澄の胸から溢れる思いの丈を示すかのように、彼の名が唇から滑り落ちる。
涙が頬を伝う。
(どうしよう、こんな気持ち)
その気持ちによく似たものを、かつて抱いたことがあった。
中学生の頃、同じクラスにいたひとりの男子生徒。
はにかみ屋で、でも一緒にいると香澄を笑わせてくれる、優しい少年だった。
教室で、校庭で、香澄は彼の姿をついつい眼で追ってしまっていた。
彼が視界に入ると、甘い想いが胸を満たした。
あの頃と同じで──けれども、あの頃よりもせつない気持ち。

恋した。
私は、彼に。
少女はため息をつく。
布団の中で熱をもったそれは、少女の涙で濡れた頬を、そっと温めた。

Fin.


2021.2.23 pixivで初出。
これもずっと外付けHDDに眠らせていたテキストに加筆したものです。10年眠ってたのは冒頭の部分ですね。
ものすごい個人的な意見なんですけど、6〜7歳年下の女子高生とカップリングとかもう完全に無理なので、私はリョウ×香澄は絶対にカップル成立しない派でして、どうしてもこういう感じの片想い香澄ちゃんのお話しか書けなかったりします。リョ香派のみなさんごめんなさい。
公式でリョ香ってどうしたかったんだろうね。なんともないといいなと思いたいよね。社会人1年目と高1のカップルとか、普通に考えて無理無理の無理。