なんでも、ロンドンからかなり離れた大学らしく、今は寄宿舎暮らしだと言う。いつロンドンに帰ってくるんだ、と尋ねたら、今度のイースター休暇には姉の顔を見に戻ると言う。それじゃあそのときに、と答えて話は終わった。
ロンドン、ハイド・パーク。
キングの店ではなく、この広大な公園を待ち合わせ場所に指定してきたのはジャンだった。
地下鉄のマーブル・アーチ駅から数分歩くと、かの有名なスピーカーズ・コーナーが見えてくる。今日は平日だったので人影はそんなに多くもなく、だからリョウがジャンを見つけるのは容易かった。さらさらとした金髪を短くし、セルロイドフレームのメガネをかけたジャンもまた、リョウにすぐ気がついたようだった。
「久しぶり」
笑顔で手を差し出してくるジャンは、最後に会ったときより随分大人びた雰囲気をまとっていた。握手を交わした手も心なしか厚みが増し、ひょろひょろしていた体つきもがっしりとしたようだ。ジャンはまだ10代なのだ。青年の成長は青竹のごとく鮮やかで、まぶしい。
「元気そうじゃないか」
「おかげさまで」
メガネの奥の青い瞳が笑み崩れる。
「だいぶ遅くなったが、お祝いだ」
リョウはバッグの中から包装紙に包まれた箱を出し、ジャンに手渡す。
「ありがとう。何だろう? 開けてもいい?」
「ああ。たいしたものじゃないけどな」
カサコソと箱を開けると、シンプルな作りの万年筆が収められている。
「すごい、ありがとう」
と、リョウを見上げて笑った顔は、少年の頃のそれと変わらなかった。
「寄宿舎暮らしじゃ、キングも寂しいだろう」
「まさか、子どもじゃないんだし」
大学生活のよしなしごとをベンチに座ってぽつぽつと喋るジャンと、それに耳を傾けるリョウ。ふたりの目の前を、小さな子どもたちが争うようにして駆けて行く。
「もう姉さんは、僕から自由になるべきなんだ」
決然とした口調でジャンが言う。リョウは少し驚いて傍らの青年を見やった。ジャンは前を見たまま、言葉を続けた。
「もう10年以上、姉さんはずっと僕の面倒を見てきてくれた。最近、それはすごく大変なことだったんだ、って、やっと本当の意味で理解できたように思う」
「だが、それはキングが望んでやったことだ。ジャンが必要以上に重たく受け止めることはない」
「うん」
ジャンは頷く。
「でもさ、年頃の女の子が男の人の格好をしてまでお金を稼いでたなんて、本当に大変だったと思うんだ。しかも僕、病気で何回も入院したりしてたしね。英国に来てからも、ずっと姉さんは僕のことを第一に考えてきてくれた。今、僕、奨学金を貰って、アルバイトもしてるんだ。やっと経済的に自立できた。だから、これからは姉さんには自分のことをいちばんに考えてもらいたいし、幸せになってもらいたい」
「それを聞いたら、キングのやつ泣いて喜ぶだろうな」
ジャンがリョウに向き直る。
「……リョウ」
「なんだ?」
「姉さんのこと、よろしく」
「え?」
「姉さんが気を許してる人って少ないんだ。リョウなら、姉さんのこと安心して頼めるから」
「ああ、任せとけ」
リョウは笑った。その笑顔には何の裏表もない。ジャンに言われたことを、言われた言葉どおりに受け止めました、という顔だ。何でこの人はこんなに鈍いんだよ、とジャンは内心で苦笑する。これは姉が苦労するのもわかるというものだ。
「わかってんのかなあ」
「わかってるとも。ジャンがいない間、ちょくちょくキングの様子を見に行けってことだろ?」
「全然違うよ!」
…と、ジャンが言い終えるか終えないかのところで、また子供たちが二人の目の前を駆け抜けていった。喧騒が塊のようになってやってきて、またすぐに静かになった。
その間、リョウは今日この場に姿を表してからいちばん真面目な顔をして黙っていた。
ジャンが改めてリョウに声をかけようかどうか思案するくらいには時間の経った頃、リョウはおもむろに手元の空になったコーヒーショップの紙コップをもてあそびながら口を開いた。
「ジャンも大人だから分かると思うが、人生は選択の連続だ。俺も君も日々何かを選択して生きてる。小さなことから大きなことまで」
「…うん」
少し唐突にも思えるリョウの言葉を、しかしジャンは黙って聞いていた。理系のジャンの頭の中には0と1が美しい二進法を描きながら並んでいた。選択と聞いてジャンがイメージしたのは、そう言う映像だった。
ただ目の前の年上の友人の脳裏には、おそらくそうではないものが浮かんでいるのだろう。もっとずっと、直感的な、野生の動物のそれにも似た閃きのようなものが。
リョウは続ける。
「君の自立は、そんな小さな日々の選択を変えるくらいキングにとって意味があることだと俺は思う」
「うん、分かる」
「君の姉さんがどんな選択をするかは、俺には分からないが、どんな選択であっても俺の力が必要なら力を尽くすよ」
「……良かった」
ジャンは笑う。そして青年らしい、くだけた口調で言った。
「僕が余計なこと言ったって、姉さんには内緒にしててくれる? 絶対めちゃ怒られる」
「言わないさ」
リョウは頷き、ジャンは笑った。そして、我ながら疑り深いなと思いながら、それでもここ何年もリョウの一挙一動に気を取られては落胆を繰り返している姉のために、もう一言念押しをすることにした。
「姉さんのそばにいてくれる? これからも」
「……キングが望むなら」
リョウはジャンが思っていたよりも明瞭に答え、しかし付け加えた。
「さっきも言ったけど、彼女が何を選ぶかは彼女にしか分からないけどな」
ジャンは笑って、柔らかく反駁する。
「僕には分かるよ」
だからよろしくね。
ジャンは続け、リョウの目を見た。姉や自分のそれよりもやや濃い、夏の空の色を帯びた瞳。
リョウは頷く。そして答えた。
「ああ。約束する」
ハイド・パークを吹きゆく風が一瞬強まる。
2人のジャケットや髪の毛を揺らし、それは過ぎて行った。まるで、何かの啓示のように。
fin.
2021.12.15 pixivにて初出
10年前に本サイトにアップしていた小話に、もうひとひねり付け加えてみました。キングさん名前しか出てこないです。
[cherryblossomes]というお話の1年前くらいのお話、という想定で加筆したやつです。なのでリョウ31歳、ジャン19歳くらいと決めました。ジャンとリョウの歳の差が正しいかは知らん…知らんのじゃ…。ジャンが寄宿舎暮らしというのは当時勝手に思いついた設定だったような記憶があります。でも公式でもそうらしいとか。自分は一次資料に当たった記憶がないので、どこ由来の設定なのかもしご存じの方いらしたら教えてください(^ω^)。
彼らの関係について色々考えた結果、リョウとキングは周りの後押しもないと動かないのではという思いがこんな蛇足を書かせたという感じです。以下は10年前のあとがき。