シロツメクサ

 シロツメクサを踏み分け、少年は行く。弓手に手綱をひき、馬手には鍬を携えている。朝露の名残が、少年の革のスリッポンを濡らした。
彼は、ところどころに継ぎ接ぎの当たった、粗末な綿の服を身につけていた。身なりは貧しい農夫そのものだったが、彼の背筋はすっきりと伸び、体つきはしなやかで、陽に晒された肌には瑞々しさがあった。
彼に曳かれていた馬が、突然歩みを止めた。
少年は振り返る。碧空をそのまま流し込んだような色の瞳が、当惑をもって馬を見る。
チ、チ、と少年は舌打ちをする。馬を急かす合図である。だが、栗毛のがっしりした農耕馬は、その場に杭で打たれたかのように立ち止まったまま、首を大地へ傾けて草を食みだした。
「こら、スィエロ」 声変わりを終えたばかりの、かすれた不安定な声で、少年は家畜を咎めた。「まだご飯の場所じゃないぞ」
そして少年は手綱を揺らし、舌を使って合図を続けた。
いきなり大きく首を振って、馬は少年から手綱をもぎ取る。
「おい、何するんだよ」
ぶるるるっ。馬は鼻を鳴らし、少年を見下ろした。その目元には揶揄の色が見て取れる。この老いた、けれども頑健な馬は、飼い主の少年を根っから舐めてかかっている。こうやって云うことを聞かないばかりか、小ばかにしたような振る舞いをするのはいつものことだった。とは云っても、少年もただそれを受け容れるわけには行かない。
「スィエロ!」
鋭い声で叱咤しながら、奪われた手綱を取り戻そうと、少年は馬の首に手をかける。馬は軽やかに身をひねり、少年から逃れる。
「おまえ、いい加減にしろよ!」
少年が怒気を含んだ声をあげたとき、背後から鈴を鳴らすような笑い声がした。
声の主は少年──ユージンのよく知る人だった。
「どうしたの、ユージン」
薔薇石英ローズクォーツのような、甘い色合いの髪の毛は肩の長さでぷつりと切られ、彼女が笑うのに合わせて揺れている。夜空のような青い瞳に星辰の煌きを湛え、いたずらっぽい表情を浮かべていた。
「シンシア」
ユージンは溜息をつき、腰に手を当てた。
「スィエロが云うこと聞かなくて困ってるんだ」
「わたしに任せて」
シンシアはそう云うと、少し離れたところから彼らを見守る栗毛馬に近づいていく。彼女の麻のスカートが、歩調に合わせて翻る様子はまるで白鳥の羽ばたきのようにも見える。
「スィエロ。もうちょっと歩いて納屋のそばまで行ったら、美味しい飼葉をあげるわ。だからここでシロツメクサを食べるのはやめて?」
彼女の口調には不思議な音階と律動がある。それはユージンの苛立った心を穏やかにする。そればかりではなく、意地の悪い老いた馬の行いすら、改めさせる。スィエロは先ほどまでの様子がまるで嘘のように素直になり、シンシアのもとへと歩いてきた。シンシアが手綱をとっても、嫌がるそぶりすらない。
「いいこ、いいこ」
シンシアは馬の鬣を撫でた。スィエロはすっかり大人しくなっている。
「ユージン、どこに行くつもりだったの?」
「畑」
「じゃあ、一緒に行きましょ」
「うん」
鍬を持ったユージンと、手綱をひいたシンシア、そして馬はゆっくりと歩き出した。
あたかも神殿の柱のごとく、不可思議な秩序を以ってほぼ等間隔に立ち並ぶ世界爺セコイアの森の中を、少年と娘は行く。
巨木たちは静かにふたりと馬を見守っている。彼らがどんなに高いのか、その頂を少年は未だ見たことがなかった。木々はあまりにも巨大で、かつ互いに梢をからめあって天然の天蓋を形作り、下から空を見上げることもかなわなかったためだ。雨や雪すら彼らの葉に漉され、地上に届く頃には柔らかな霧になる。大風さえ彼らの頑強な幹と梢が侵入を許さない。少年と、彼の住まう村は常に森に守られて安寧であった。
「……なんでスィエロは、シンシアの云うことは聞くんだろう。餌をやってるのも、馬小屋を掃除してるのも僕なのに」
ユージンは納得いかないと云った口調で云う。シンシアが答えた。
「スィエロはユージンのことを子ども扱いしてるのよ」
「ちぇっ」
ユージンは足元に転がっていた小石を、スリッポンの爪先で蹴った。
唇を尖らせる少年の横顔を、シンシアは微笑を浮かべて見つめる。ユージンの背はここ数年でぐんと伸び、いつしかシンシアを追い越そうとしていた。だが、苔むした樹皮にも、また桂の若葉にも似た緑色の髪がかかる頬には、まだまだあどけなさが残っている。
「僕はもう子どもじゃない」
「そうかしら?」
「そうだよ!」
ユージンはむきになってシンシアに向き直る。
「もう15なんだ」
「そうね」
「剣だって結構使えるようになったし、魔法だって少しは覚え始めたし、狩りだって、野良仕事だって、できる」
指を折りながら少年は云う。
「それでもきみは僕を子どもだと思う? シンシア」
少年は立ち止まる。少年の瞳が彼女を見つめている。
「どうしてそんなことを気にするの?」
シンシアも立ち止まって、少年を見つめ返した。一歩、近づく。足元でシロツメクサがかさかさと音を立てている。
ユージンは決然とした表情で云った。
「……きみに、早く一人前の男だと思ってもらいたいから」
「ユージン……」
「きみは僕より年上だから、いつもそうやって僕を子ども扱いするけれど……僕は少しでも早く、きみに追いつきたいんだ。早く大人になりたい」
シンシアの愛らしい顔が、笑み崩れた。
娘は更に一歩、少年に近づくと、手を伸ばして彼の頬を支えた。そして、甘い口付けを少年の唇に与える。
少年はまなこを開いて、目の前の娘を凝視する。彼女の表情は相変わらず、優しい微笑をたたえたままだ。けれども、どこかに憂いを帯びた瞳の色が、少年の心に引っかかる。
娘は口を開いた。
「そんなに急いで大人になろうとしないで」
「どうしてさ?」
「大人になったら……」
シンシアはそこで不意に言葉を止め、目線を逸らした。
「……なんでもないわ」
「どうしたの、シンシア」
「大丈夫。なんでもないの」
シンシアは笑って、もう一度ユージンの頬にキスをした。先ほどのそれとは違い、どこか挨拶めいたキスだった。その、一方的に流れを断ち切るような振る舞いこそが、娘が少年をまだどこかしらで子ども扱いしている証のようであった。
それを感じて、少年の心はすこしふさいだ。
(きみが止めても、やっぱり僕は大人になりたい)
少年はそんなことを思う。
彼は、ただ年をとれば大人になれると無邪気に信じている。
娘の胸は、そんな少年への愛情できりきりと痛んだ。
大人になんて、なって欲しくない。時間を止めてでも、娘は運命に抗いたかった。
だが、それは矮小なおのれは勿論、天におわす竜の神にさえ為せるわざではない。
「ユージン」
シンシアは少年のしなやかな身体を抱きしめる。
「シンシア?」
「しばらくこのままでいて」
ユージンの胸に顔を埋めたまま、シンシアは云う。彼女の細い腕に力が篭る。まるで少年に必死にすがりつくかのように。
少年はそんな娘の背中に腕を回し、鼻先で彼女の不思議な形の耳朶を擦った。目の前の恋しい娘の憂鬱を、どうやったら晴らすことが出来るのだろうと、戸惑う。そして、矢張り早く大人になりたい、ならなくてはいけない、と願う。
大人になればきっと、今みたいな時にもすぐに気の利いたことが云えるようになるはず。すぐに、シンシアを笑顔に導けるようになるはず。
ユージンは思う。その漠然とした信仰こそが、子どものものだと云うことにさえ、彼はまだ気づいていない。

 


5章から遡ること2年前のお話です。初出は2008年から2009年、個人サイト。pixivで2021年5月に公開しました。