血流が身体を巡っている。
血管は、血以外のものも運んでいる。アリーナにはそう感じられてならない。意識を集中すればするほど、四肢は熱くなり、力が蓄えられていくのだ。
五感は冴えわたり、眼を閉じてなお周囲の様子が彼女にはまざまざと解った。そよぐ風が城の庭木をどういうふうに揺らしているか。空をゆく雲がどのような陰影を齎しているか。
巻き藁をほどこした丸太が木枯らしに吹かれている。アリーナは仮想敵の姿を、そこに重ねた。対峙したそれは身をよじり、彼女に牙をむいて襲いかかる!
「──ふっっ!」
その牙を紙一枚ほどの隙間でかわし、勢い余った敵の背後に回る。
「てやああっ!」
痛烈な蹴撃。つま先が刃のような鋭さで、延髄をえぐった。衝撃が彼女の骨を伝い、脊髄にずっしりと響く。
脳裏に描く魔物は、断末魔と共に絶叫する。
そして彼女の眼前では、丸太が見事に折れていた。
「…………」
いくさは──個対個の決闘においては、全てが一撃必殺だ。
それが、アリーナが今までに築き上げてきた戦いの理論だった。特に彼女のように、肉薄しなければ敵を傷つけられない場合は、なおさら。
剣士であるユージンもライアンも同じようなことを云っていた。だが、アリーナのそれは更に洗練されていた。
剣は、触れば斬れる。
広く浅く触れても、出血がいつか死に至ることもある。
だが、アリーナの拳や足は、ただ触れただけでは傷もつかぬ。
急所をとらえ、血の流れを止める。神経を断裂させる。
針の穴を通すように、的確に。
旅路の相棒だったキラーピアスは、それを助けるだけである。ひっかき傷では敵は死なぬ。
再び、息を整える。彼女の周りには、そうやって一撃のもとに真っ二つにされた丸太が何本も転がっていた。
「──今日はここまでにするわ」
と、姫は振り返る。背後に控えていた女官が心得て、綿のガウンを持ってきた。羽織らせてもらうと、汗を吸い、冬の乾いた風を遮ってくれた。
サントハイム王宮の、中庭である。
公務とつかさどる「表」と、王族の私的空間である「奥」を隔てている。四季折々の草花が咲き乱れる庭園だが、今の季節はやはり寒々しい。
表と奥をつなぐ廻廊が中庭の四周を取り囲んでいる。そこに、仰々しい行列の姿が見えた。姫よりも幾分明るい赤銅色の髪がその先頭で揺れている。
「おてんばどの、修行御苦労」
「お父──陛下」
親しみのこもった呼びかけに対して、アリーナがそうやって云いなおしたのは、父王の傍らに隣国の大使の姿を見とめたからである。全くの散歩というわけでもない父を慮ってのことだった。
「武術大会で拝見したときよりも、更に鋭さが増したようですね。さすがは、魔王を討ち取られた英雄」
と、エンドールの大使は笑って云った。彼は、現王の甥である。年のころはアリーナとさほど変わらないようだったが、大国の外交を担っているからか、物腰は洗練されて落ち着いている。
エンドールの王族らしく、黒目がちの大きな瞳と、彫りの深い目鼻を持った、甘い顔立ちの青年だった。海を隔てているからか、同じ彫りの深さでもサントハイム人とエンドール人のそれは全く異質なものだった。生粋のサントハイム人の鋭く、厳しい、まるで鑿で削ったような面差しはむしろ、スタンシアラ人のそれと通底するものがあり、エンドール人の特徴ともいえる、たっぷりとした唇や大きな眼窩とは似ても似つかない。
彼はまた、先だってアリーナが父からさりげなく見合いを勧められたが、すげなく断っていた相手でもある。
「ありがとう。しかし、世辞など要りません」
アリーナは笑顔こそ浮かべていたが、そうきっぱりと云った。
「これは手厳しい」 青年──カルバハル公爵はアリーナのきつい言葉を、しかし笑って受け流した。「わたくしは心の底から殿下を称賛しております」
「おてんばどの。もう晩餐までいくらもないぞ。まさかその汗臭い姿でやってくるのではなかろうな」
青年の傍らの父が、顎を撫でながら揶揄う。
「ひどいわね! お父さまはそんなことをアリーナがすると思ってらっしゃるの?」
「冗談だ。しかしアリーナ、早く準備をするがよい。ではな」
王はそう云い残すと、軽く手を振って去った。青年や、お付きの者たちがそれに続く。今日、父王と隣国の大使は乗馬を愉しんだと聞く。アリーナが厭ったそれを、父が肩代わりしてくれたのには、正直ほっとさせられた。
「姫さま、そろそろ湯あみをしていただきませんと」
ずっと控えていた女官がそう口を出す。アリーナはせかせかとした口調の彼女を、しんねりと眺めた。
「わかってるわよう、もう。……ああ、面倒くさい……いっそ、本当にこのままのかっこうで行ってやろうかしら」
「姫さま」
「わかってるってば」
どんなに頑張っても、正装と晩餐会だけは、どうも好きになれないアリーナであった。
流しかけられた湯が腕をすべり落ちていく。
次いで、ふわふわとしたタオルで全身をぬぐわれた。入浴係の女官が、肌の乾燥を防ぐ薬水をくまなくすり込んでくれる。薬草の香りが浴室に満ち、不機嫌だった姫の心はすこしだけ晴れた。
アリーナは先ほど顔を合わせた青年の顔を思い浮かべる。
確かに美男だったし、昨日の晩餐会で話した限りそこまで莫迦でも気障でも無さそうだった。だが、それだけである。
(大して知りもしないひとと、仕組まれたように娶せられるなんて、そんなの)
絶対に厭だ。
まるで、背中の羽がもがれるような怒りさえ、アリーナは覚える。
(わたしは、本当に好きなひととしか結婚しない)
アリーナは浴室の壁を覆う鏡を見やる。そこには自分の生まれたままの姿が映っている。サントハイムの他の女に比べると、やや小柄だった。確かに少しばかり幼いかもしれないが、それでも自分の大事な身体だ。周囲の都合で押しつけられた男などに与えるなど、とても許せることではなかった。
浴室から続く身づくろいの間へ歩きながら、アリーナはゆらゆらとそんなことを考えている。今日彼女が纏うドレスは、国事の次に大切な行事のためのものであった。サントハイムの豊穣さを表すかのような鬱金の絹。胸元には、瑠璃や青石、菫青石らが夜空のような深遠たる輝きを放っている。
菫青石は、クリフトの髪の色。
アリーナは幼馴染の青年を思った。彼の控えめな挙措や、柔らかな笑顔を思った。思うと、何か胸の奥がじんと熱くなった。
今日は、友人の結婚式に招かれている、と云っていた。
(結婚式かあ)
彼女の遊び相手として宮中にやってきていた貴族の子女の輿入れの話や、年頃の女官が嫁に行く話など、ここ最近アリーナの周囲はそんなことばかりで持ちきりであった。女官やブライ老は、姫の機嫌が悪くなるのが解っていてなお、その噂話を持ちこんでくる。彼らの云いたいことはさすがのアリーナにも解っていた。「早く婿をとれ」、それに尽きることを。
だが、アリーナにはそんな気持ちはなかった。
結婚と云うこと自体がおとぎ話じみて、まるで輪郭が無かった。恋さえ覚えたばかりの雛鳥にそれを解れと云うほうが無理だった。
ぼんやりしているうちに、コルセットをきつく締められ、ドレスを身につけさせられた。髪結いが情け容赦なく彼女の巻き毛を引き結んでいく、その痛みに文句を云いながらも、姫の正装は形になっていく。
◆◇◆
クリフトの目の前で、花嫁と花婿が熱い接吻を交わした。居並ぶ列席者たちから、歓声が上がる。彼らの間にはサントハイムの郷土料理や酒が並べられ、それぞれの卓の中央には花嫁が丹精込めて作ったという花が飾られていた。
花嫁の髪を彩る冬の花と、彼女が握るブーケからひとひらの花びらがこぼれおちる。花婿はそれを拾い上げ、今日妻に迎えたばかりの娘に手渡した。まだあどけなさの残る花嫁はそれをしっかりと受け取り、はにかんだように微笑む。視線はお互いを見つめたままの初々しいふたりに、周囲が更に冷やかしの声をかけた。
今、こうやって滝のような祝福を受けている彼らのうち、花婿が、かつて同じ学び舎で勉学に励んだ友人であった。学院を卒してのち、クリフトは神職に就き、彼は王国の執政官となった。この場合、神官の道を歩んだクリフトのほうがどちらかと云えば異色であった。列席している同窓の友人たちは、内政にせよ、外交にせよ、ほとんどの者が国政に携わっている。
今年、クリフトは23歳になった。何かを決意させる年頃なのだろうか、同年代の友人の結婚式にこうやって招かれる機会が、ここ最近増えていた。
無論、世情が安定したということもあろう。結婚だけではなく、この世に生を授かる赤子の数もここしばらく随分増えたと聞く。喜ばしいことだ。事実、ばたばたと結婚した友人たちの間には、続々とこうのとりが舞い降りている。職業柄、赤子らに洗礼を授けたり、名前を考えたり、そんなことを頼まれることも多かった。
列席者の間を腕を組みながら立ちまわる新郎新婦を眺めながら、クリフトは学友たちと他愛のないことを喋り続けている。旧友の消息や自分の仕事のぼやき、世間話、家族の話。もちろん、今日の主役である若い夫婦のことも俎上にのぼる。
「花嫁は、随分若く見えるな」
クリフトが云うと、傍らの友人が答えた。
「18、9だと聞いている。確かに少し若いかも知れないが、そのくらいで結婚する娘はいくらでもいるんじゃないか」
「君のところの奥方も、そんなに若かったっけ?」
「うちは21さ」
と、今年の初めに結婚した彼は頷いた。
「おまえはまだ結婚しないのか、クリフト」
別の友人が尋ねてくる。
クリフトの周辺に限らず、サントハイムの若者たちの多くが、20歳そこそこで身を固める。20代の半ば過ぎにはほとんどの男が妻帯者である。勿論、その例に則らない者もいる。聖職者は得てして晩婚の傾向があるし、適齢期の真っ最中に国境線守衛に配置されていた軍人も少なくはない。だが、市井の人々の基準に照らせば、クリフト自身も適齢期真っ只中と云っておかしくはなかった。
「私はまだ、とてもそんな状況ではないよ」
クリフトは苦笑しながら云った。
「花嫁の友達が随分招かれているが、可愛らしい子もいるじゃあないか」
友人がそう、唆す。確かに、花嫁を囃したて取り囲むのは、仕立ての良いドレスを纏い、華やかな化粧をほどこした女性たちばかりである。
花畑を眺めるような心持ちで、クリフトは彼女たちを見やった。みな、二十歳前後、と云ったところだろうか。あのすらりとした子は雛罌粟に似ている。あの小柄な子は、番紅花みたいだ。心の中で、そうやって娘たちを野の花に見立てる遊びをしていると、友人がクリフトをからかった。
「気に入った娘がいたら、一緒に声を掛けに行ってやろうか?」
「とんでもない」
クリフトは首を横に振った。
「本当に、今は女性にかまけている暇なんて無いんだよ」
そう云い訳をする。友人たちは、おまえも大変そうだなあ、などと同情してくれた。少し心が痛む。多忙なのは確かだが、それが女性を遠ざける理由ではないからである。
(──姫さまは、今頃何をしておいでだろう)
青年は、城に在るであろう、主君の姿を思い浮かべた。
目の前の娘たちの群れにアリーナを放り込んでも、そんなに年齢は変わらなそうだった。もしかすると、アリーナの方がやや年上かもしれない。主君は今年で21歳になったのだ。
サントハイムに限らず、王侯貴族の子女の婚姻は早い。かつてブランカか何処かの姫君は12歳で輿入れしたと云う話だ。 それは極端な例だが、20歳までには結婚をする者が大多数であった。数年にわたる長旅が彼女の人生に横たわっているとは云え、アリーナはその基準に照らせば、“行き遅れ”もいいところなのであった。
(いつかは、あの方も)
しかるべき人を王配としてお迎えになるのだろうか。
否、年齢を鑑みるならば、「いつかは」どころの話ではない。聡いクリフトでなくとも解る。
近いうちに、あの方は。
クリフトの表情が曇った。
洋の東西を問わず、今も昔も王族貴族の恋愛は、宮中に隠花植物のごとく妖しく咲く仇花である。幼いころから有象無象の読書に親しんできた青年にとってもそれは慣れ親しんだ命題であった。小説にせよ、歴史書にせよ、絢爛豪華な華燭の典の裏で悲恋の涙を流す若者や乙女の姿が常にそこには在った。クリフトは彼らに、己が身を重ねた。
わたしは、どうすべきなのだろう。
青年は自問する。目の前を、新たに夫として契った青年に腕をからめながら、幸せそうに花嫁が歩いていく。花嫁のドレスは、彼女の祖母と母が丹精込めて作ったものだと云う。その純白の絹の輝きを、青年はぼんやりと眺めた。その光景は近いうちに、今一度繰り返されるのではないだろうか。ドレスを身にまとうかの人を、自分は素知らぬ顔で祝福しているのではないだろうか。
そんな想像が彼の頭を去来する。しかし次の刹那、青年は己を襲った嫉妬の炎のあまりのどす黒さに、ひどくうろたえた。
◆◇◆
拘束具のような、踵の高い、尖った靴に、姫の足はひどく痛めつけられた。
ドレスも、高く結いあげた髪も好きではなかった。だが、アリーナがいちばん嫌いなものこそが靴だった。旅の最中のように、柔らかい革の長靴をずっと履いていられたらどんなにいいだろう、と、こうやって靴ずれに苛まれるたびに彼女は思う。
今、アリーナは私室の長椅子に腰かけ、膝から下を女官の前に投げ出している。彼女の足元には薬湯が湯気を立てる桶があった。
「いたっ! 痛い!」
女官が薬湯を浸した布で、アリーナの足に触れる。アリーナは思わず大声をあげた。血の出ない、薄皮の剥けた傷と云うのは、派手な擦り傷より余程沁みる気がする。
「ご辛抱なさいませ」
にべもなく、女官は云った。海千山千の彼女は中々手ごわい。
「痛い! セルマ、やめてよ!」
アリーナはとうとう足を引っ込めてしまった。
「ですが、薬湯を使いませんと、傷の治りが遅れます」
「クリフトを呼んできてよ。魔法を使ってもらうから!」
「こちらは姫さまのご寝所でございます。殿方をお入れすることは出来ませぬ」
「なら、勉強部屋まで行くから、呼んできてよ」
あくまで云い張る姫に、セルマと呼ばれた女官はため息をついた。
「仕方ありませんね」
少々お待ちいただきますよ、と云い残し、彼女は部屋を出た。アリーナは立ち上がり、室内履きのままでそのあとに続く。せかせかと館の入口へ向かう女官の背中を見送り、いつも家庭教師を招き入れている部屋へと向かった。すれ違う女官が恭しく頭を下げてくるのに片手で応えながら、金色の獅子の彫金で飾られたドアノブを引く。
桃花心木の大きな机に寄り添っている椅子を引っ張り出して、向い合せにさせると、その片方に腰掛けた。
ほどなく、扉が鳴った。
「姫さま。クリフトです」
「入って」
ドアが開くと、青年がするりと滑り込み、作法通りの辞儀をした。
「足が痛いの」
甘えたような声で云うと、クリフトは笑顔を浮かべながら近づいてきた。その手には、先ほどと同じ、薬湯の入った桶がある。
「靴ずれをなされたとか」
「そうなの、治して、クリフト」
「失礼いたします」
クリフトは彼女が用意した椅子には掛けず、跪いて、アリーナの足を手に取った。
青年のひんやりとした手に触れられ、アリーナの胸の鼓動が駆け足になる。青年の端正な顔が、深緑の瞳が、凝っと己の足を見つめていることに、今更姫は緊張した。
彼女の白桃のような足は、外気にさらされたからかすこし赤くなっている。親指の付け根と踝の下、踵に、靴ずれで皮の剥けた傷跡が、痛そうな肉色をさらしていた。
「痛そうですね」
「その薬湯、沁みるの。使っちゃだめ」
「これはセルマさんに持たされたものです。わたくしは用いません」
そう云いながら、クリフトはアリーナの傷口にてのひらをかざす。
彼の掌が熱を持った。山吹色の光の粒子が、その熱をアリーナの足に伝えた。
「──ホイミ」
力ある言葉の齎した秘術が、アリーナの傷をたちどころに癒した。光が引くとともに、彼女の傷も、じんじんとする痛みも消えた。
「いかがですか?」
「うん、痛くない」
姫はどこか上の空で頷く──と。
恋人が、彼女の足を持ち上げ、つま先に口づけた。
「!!」
乙女は言葉も出ない。
クリフトから、手の甲に口づけを受けたことはある。それは臣下の恭順の振る舞いだからである。
だが、──足など。
「ちょ、ちょっと」
「いけませんか?」
「い、いけなくない、けど」
「おみ足なら、失礼でないかと」
この人は何か間違えている、とアリーナは思った。接吻にはそれぞれ意味がある、と礼儀作法のを勉強の時間に姫はブライから教わったことがある。顔から遠ければ良いと云うものではない。
「さあ、靴をお履きください」
クリフトは何事もなかったように、傍らから彼女愛用のスリッポンを取り出して、履かせた。
「わたくしは仕事中でございますので、これにて失礼させていただきますが、よろしいですか?」
「行っちゃ駄目って云ったら、行かないの?」
アリーナの言葉に、クリフトは苦笑する。
「──困りましたね」
「行っちゃ駄目」
「それは、困ります」
「でも、行っちゃ駄目だもの」
「しかし、仕事がございます」
そんなやり取りを愉しんでいると、唐突に部屋の扉が開いた。アリーナははっと身を固くし、跪いたままのクリフトは自然な動作で後ろにすり下がる。扉を開けたのは、父であった。傍らには、ブライも控えている。
「お父さま」
「おお、居た居た」
云うなり、父王は大股で歩んできた。クリフトが腰をかがめたまま、背後の椅子を王へと差し出す。王はそれに腰かけ、顎でブライにも椅子を勧めた。
「クリフト、そなたはさがれ」
「はい。失礼いたします」
クリフトは今一度膝を折り、しきたりどおりに立ちあがって、去った。
扉のノブが完全に回り切るのを、アリーナは目で追う。
「アリーナ」
名を呼ばれ、アリーナは父の顔を見た。
「何の御用? じいやまで連れて」
「一昨日からの国賓の歓迎、ご苦労だった」
「いいえ」
アリーナは首を横に振る。アリーナが負った労苦など、肩凝りと靴ずれくらいである。
「カルバハル公爵は──」 と、父はエンドールの貴公子の名を呼んだ。「そなたが思っていたような、軟弱なお坊ちゃんではなかったろう」
「まあね」 アリーナは昨晩、晩餐会で公爵と話したことを思い出した。武ばったことが好きらしく、武器や実際の武道、馬術が主な話題だった。少なくとも、詩だの香水だの宝石だのの話をされるよりは、面白かった。
「どうだ、婿にとらぬか」
「またその話?」
アリーナは心底うんざりした顔をして、眉間にしわを寄せた。
「猫の子じゃあるまいし、そんな簡単にとるとかとらないとか、云わないでくれる?」
「だが、年も近いし、家柄も申し分ない。先方も幸いなことに、そなたを気に入っておる」
「またとないご良縁ですぞ、姫さま」
ブライが横合いから口をはさむ。
「厭よ、そんなの」
「アリーナ」 父王は、アリーナと同じ鳶色の瞳を、娘に向けた。
冬の午後。もはや斜めに傾いた陽光が部屋の隅々まで行きわたる。
ざらついた光の粒が、3人を照らした。
「アリーナ」
父はふたたび、娘の名を呼んだ。
「そなたは儂のただひとりの嗣子。そしてそなたも存じて居る通り、儂に兄弟はおらぬ。従兄弟もおらぬ。情けない話ではあるが、儂の代でメルレンブルク家は終わる」
父の口から家名が出るのを、アリーナは久方ぶりに聴いた。
「そなたが王配を迎え、数多子を為さねば、王の係累は途絶える。国は乱れる」
「そんなことは解っているわ」
アリーナは云った。言葉通り、もちろんそれを彼女は頭では理解していた。
「でも、わたしはまだ21よ」
「もう、だ。そなたの母上が27で身罷られたのを、忘れたか」
「…………」
アリーナは口を噤んだ。
「姫さま。姫さまはもう立派な大人でござる。人を愛し、子を為すことができまする。何を斯様にお厭いになられます?」
白髯の老人が問う。
姫は黙り、唇を噛んだ。
沈黙を破ったのは、王だった。
「──まあ、良い」
父は掌の上で扇をひらいたり、とじたりした。
「今年中にどうこうとは先方も云わぬだろう」
「今年だろうと来年だろうと、困るわ」
「何故困る」
アリーナは黙る。
「そら、だんまりだ」
父は淡々と云う。
「我儘は通用せぬぞ、アリーナ。ブライの云うとおり、そなたはもはやれっきとした成人なのだ。そして王族の成人は、婚姻をするものなのだ。そなたが我がサントハイムの窮地を救うため、世界を駆けまわったのはよく解っておる。その時間が短くなかったことも解っておる。だが、それを差し引いてなお、残された時間は少ないのだ」
「我儘じゃないわ」
「では、何だ」
「……云えないわ」
アリーナは、ぷい、と横を向いた。
王は嘆息する。
「それが我儘だと云うのだ、おてんばどの」
「違うわ! そうじゃないわ」
二人の視線が交錯した。
先に目をそらしたのは、父だった。
「まあ良い。今日はこの話はやめだ」
そして父は立ちあがった。ブライが後に続く。
その姿を見送り、アリーナは足をぶらつかせた。
(クリフトがずっと畏れていたものが、今、わたしを畏れさせている)
姫の心を憂鬱が覆った。部屋にも薄暗がりが溜まり出している。夕刻が迫っていた。
壮年の男と老境の男は、揃って廊下へ出た。部屋の前で控えていた兵が居住まいを整え、敬礼をする。
天鵞絨の廊下を踏みしめながら、ふたりは歩く。彼らの数歩先を、先触れの兵が行き、背後もいま一人の兵が守る。
「姫さまには困ったものですな」
ブライが白髯をしごいた。
「じいよ」
王が小声で云い、立ち止った。目配せで人を払えと命ずる。ブライは、前後の兵たちにさがるよう命じた。廊下での人払いに兵たちは戸惑った様子だったが、またお呼びくださいと云い残してその場から消えた。
「どうなさいましたかな」
兵らの瑠璃紺の鎧が視界から消えたのを見計らって、ブライは重々しく口を開いた。
「じいも解っておろう」
「何をですかな」
「娘が、婿を取りたがらぬ理由をだ」
ブライは答えず、黙って髭をしごいた。しかし、その表情に肯定の意を見た王は、構わず言葉をつづけた。
「王家に子が中々生まれぬようになったのは、いつごろからだったかな」
話題が明後日の方向に飛び、老獪なる魔法使いですらやや戸惑った。しかし、それをおくびにも出さず、彼は記憶の引き出しから言葉を取り上げる。
「恐れながら、メルレンブルク家はその嚆矢より多産の家系ではございませんでした。ですが、その兆候が顕著となりましたのは、5代前からと記憶しております」
王は腰の後ろで手を組み、廻廊から中庭を見下ろした。急速に陽が陰り始める庭園を眺めながら、王は背中越しに云った。
「我が祖先とて、元をただせばどこの馬の骨ともしれぬ田舎貴族よ。だが、運よくと云うべきかな、先の王朝に男子が生まれなんだ。縁あって、王家と契り、歴史を継ぎ足した。そうでなければ、未だ西南の狭い荘園を耕して暮らしておったはずだ」
「何を仰います」
「だが、そうは思わぬか」
王はブライを見る。ブライは答えない。王は更に云う。
「先の王家と今の王家、状況が似ている」
「さようでございますな」
「時代が、血が、要請しているのかもしれぬ。アリーナは時代が呼んだ子かもしれぬな」
ブライは眉を動かした。だが、王はもはや話を打ち切っている。手を叩いて衛兵を呼んだ。
独白めいた会合は終わった。
王が言外に云いたかったことの半分は解った。だが、あと半分は解らない。己の固陋の所為であろうか。王と姫のごとき絆が、姫と己に無い所為であろうか。
「じい、行くぞ」
声を掛けられ、ブライは後に続く。
西の空は最早、足の速い夜に浸されている。
菫青石のような澄んだ青がブライの網膜を染めた。老人の脳神経にいくらかの電流が走った、しかし、それはあまりにかすかで、彼はそれを捕まえることが出来なかった。
それを老人の所為にするのは酷なことだった。まさに霊感めいた、弱弱しいものでしか、それは無かった。
2010年ごろ個人サイトに初出。2021年5月pixivに掲載。
個人サイトにアップしていたドラクエ4クリアリ小説を移管しました。
実はこのシリーズ、おしまいまであと一息なのに…ってところで更新が止まってしまっています。これ、最後まで書きたいなあ。
タイトルと大体のあらすじだけは辛うじて記憶しているので、形にできたらいいなと思います。