扉を開けて入ってきたミネアの表情は、灯りを背にしている所為で見えなかった。しかし、彼女の声は柔らかく滋味に満ちていた。
その日。大陸を一気に南下する道行へと至った。ホフマンが仲間から去り、彼の愛馬だったパトリシアの機嫌は心なしか悪かった。ユージンのあやるつ手綱と、彼女にはめられた轡が、人間と馬の意思と抵抗、苛立ちを伝え合っては幾度も耳障りな音を立てた。加えて、魔物も人里を離れるにつれて手ごわくなっていた。マーニャが炎の魔法を見せれば驚いて逃げていくような、獣に毛がはえたような魔物たちには行き会うことがない代わりに、かまいたちやはえおとこのような、こざかしい者どもが数を増してきたのだ。
鈍足と邪魔者のおかげで、全くといっていいほど捗らない旅路に、勇者は珍しくいらだちを覚えていた。
日暮れ近くなって、街道筋に小さな宿場町を見つけたとき、だいぶ無口になってしまったそんなユージンに、マーニャが云った。
「今日はここまでにしよう、ユージン」
旅程を半分も消化していない、と抗弁するユージンに、踊り娘は答えた。
「たまにそういう日があってもいいじゃない」
そして、ウインク。ユージンは毒気を抜かれて、彼女の言葉に従った。
食事の席には共についたものの、早々に座を辞した。部屋に戻って旅装を解き、浴場で形ばかりの湯浴みを終えた。いつもならば一人で武具の手入れをしたり、携行の薬草の残りを点検したりするのが日課なのだが、少年はそれすら物憂くて、髪も乾かさぬまま寝台に倒れこんだ。
古ぼけた寝台の木枠が悲鳴を上げる。燭台の炎が消えそうになるのを、布団から手を伸ばして庇った。
大きく、ため息。
そのとき、ミネアが扉を叩いたのだった。
「灯り、つけていい?」
問われてユージンはどうぞ、と答えた。ミネアが寝台の脇の燭台の火を行灯の中に移すと、部屋の中が心もち明るくなった。ミネアの手には、小さな布袋が携えられている。
ユージンは起き上がり、脱ぎ散らかした衣服の中から上衣を拾い上げて、羽織った。
「気なんて…立っていたかな」
「パトリシアとしょっちゅうけんかしていたじゃない」
「あいつ、いきなり云うことを聞いてくれなくなったんだ」
「ホフマンがいなくなって、不安なのよ。パトリシアも」
「…本当にいい馬はそんなこと関係なく駆ける」
「そうね。気に食わない主人を振り落としてね」
「……」
ユージンは目を伏せた。ミネアの云うとおりであることを、ユージンも勿論知っていた。かつて故郷では馬を飼い、彼らを操っていたからだ。パトリシアには及ばない、平凡な農耕馬ではあったけれども、それでも彼らの瞳はいつも澄んでいて聡明だった。
「馬は賢い生き物よ。そして主人を選ぶ権利があると、彼らは思っている。ホフマンはパトリシアに、新しい主人はユージンだと教えていってくれているはずよ。でも、パトリシアは寂しいのよ」
「わかってるよ…明日は辛抱強くやるよ」
少年は唇をすこし尖らせながら答える。
彼の萌葱色の髪が、炎に揺られて様々な色相を帯びていた。
「今日はユージンにお土産を持ってきたの」
そう云うと、ミネアは袋から小瓶と小皿、小さな五徳を取り出した。
「何、それ」
「あなたが疲れているようだったから、良い眠りを、と思って」
五徳に小皿を据え、小皿に小瓶の中の液体を注ぐ。それを、さっきまで寝台の枕元で部屋を照らしていた燭台の上に安置させると、ミネアは改めて蝋燭に炎をつけた。
草花のような香りが少年の鼻腔をくすぐる。今までに嗅いだことのないものだった。
「白檀と云う樹から採れる精油と、安息香と云う花から採れた精油を混ぜたの。心が落ち着いて、のんびりした気持ちになれるわ」
確かに、その香りに染まった空気を鼻から吸い込むと、百会から頸窩あたりの筋肉がふっと緩んでいくような感覚になった。こわばっていた肉体だけでなく、神経までもが束縛を解かれていく。
「…いい香りだね。初めて嗅いだ」
「白檀も安息香も、どちらもこの大陸には生えていないみたい。わたしの故郷ではよく見かけたけれどね」
「植物から油が採れるんだね」
「あら、松脂だって、そうじゃない」
ミネアは優しく微笑した。
「うん、でも、これはいい香りだから」
「わたしの故郷には他にも色々な植物から精油を採って、こうやって水と一緒に温めて、香りを楽しむ習慣があるの。楽しむだけじゃない、心を鎮めたり、元気にしたり、そういう効果もあるのよ」
「気づいたこともなかったな」
少年はふと、故郷に思いをめぐらせた。草木や花は常に少年の周りに在り、折々に姿を変え、実りを齎してくれたが、それらはあくまで生活のための道具に姿を変えたり、食料になったり、即物的で実際的な恵みであったように思う。彼の村では燃料は油ではなく薪であったし、花は香りを楽しむものではなく、姿を変えた実を食むための目印であった。
「ぼくの村はきっと貧しかったのかな。香りを愉しむなんて…したこともなかった」
「でも、常にそばにあったでしょう?」
ミネアの声はあくまで優しい。
「…そうかもしれない」
木立に分け入ると、いつでもむせ返るような樫の香りがあり、牛を曳いていく牧草地には白詰草の香りが漂っていたような気がする。それらがどれだけユージンの心をほぐしていたかは、全てが灰になった今では解らないけれども。
「ユージンの村は貧しかったんじゃなくて、恵まれていたのね。森がもたらすものが、当たり前にあなたの生活にはあったのよ」
「恵まれていたのかな。そんな風に思ったこと、なかったけど」
「モンバーバラでは、手先が不器用な人は、精油を買っていたわ。お金を出さないと、草木の恵みすら受け取ることが出来ない人だっているのよ」
ユージンは頷いた。
ミネアが立ち上がる。衣擦れの音が、すっかり静まり返った夜気を震わせた。
「わたしもそろそろ寝るわ。精油皿をひっくり返さないようにね、ユージン」
「うん、ありがとう。ぼくももう寝る」
「おやすみなさい。明日があなたにとって良い日でありますように」
「おやすみ。ミネアにも良い日が来ますように」
占い師は、するりと扉の隙間から出て行った。
寝台に座ったまま、少年は大きく深呼吸した。さきほどまで苛苛と毛羽立っていた神経がすっかりなめらかになっている。
燭台の炎がゆらゆらと揺れる。それと共に芳香も流れを変え、部屋の空気までが滋味に満ちていくようだ。そしてそれはきっと、優しい占い師の残していった滋味でもあるのだ。少年は寝台に横になり、目を閉じる。まぶたの向こうに灯りの揺らぎを感じた刹那、彼の視界は暗転した。
その次の瞬間には、少年はもう、安らかな眠りに落ちていた。
炎は変わらず、安らぎを部屋の中に立ち上らせている。
2008年個人サイトに初出、2021年5月にpixivに掲載。
以下は、2008年当時の更新報告のブログから。
—
いやー、前回のクリフトとアリーナのおはなしを必死こいて書いて以降、久々にぱくっとお話を書くことが出来ました。と言っても、習作、スケッチ、みたいな感じですね。起承転結がなさ過ぎでビックリ、みたいな。
ミネアさんと勇者君が主人公になることは決まっていて、1回タロットのお話を書き始めて、これがまた面白くなくてボツッたのでした。
この「白馬と芳香」が面白いかは、また別の問題ですが(え?)、そのボツ以来のお話です。
最近自分でもアロマスプレーを部屋にシュッシュしてみたりしていて、香りと云うものが人間に与える影響にはかなり侮れないものがあるなーなんて思っていたんです。
そこから生まれたお話です。
こういうゆるい短いお話をもっと高い頻度で書いていければなあ。と思います。