砂地を削るようにして流れていく川のほとりに、少年は座り込んでいた。あるかなきかの月光は彼の陰影を薄ぼんやりと作りだしていたが、時折空を駆ける薄雲にかき消されがちであった。
少年の目はただ川を見ていた。おそらくは少年が生まれる前から、否、少年の親の、そのまた親の、そのまた親の──兎に角、連綿とした生命の連鎖が始まるのと同じくらいの昔から、変わらず流れていたのであろう、その水の流れをただ無心に見ていた。
今は夜。
川べりに点々とする家も、少年の仲間たちも、まどろみの中にある。
民家から漏れる光も月光も、圧倒的な夜の前には風前のともしびと同じく、少年の視界を開く助けにはならない。もしかすると彼は、川を見ているのではないのかもしれない。ただ、目の前に広がる空気を、茫洋と眺めているに過ぎないのかもしれない。少年の無感動な表情からは、彼の翡翠色の頭髪の中でどのような思考が繰り広げられているのかをうかがい知ることは出来なかった。
水音が常に人々の鼓膜を叩くこの村に在って、少年はいつしかその水音を忘れた。川はあまりに当たり前にそこにあり、水音は空気に溶け込んでいたがゆえ。天を支える世界樹の木の葉ずれのごとく、それは音でありながら音でないのだった。
ただ、広がるのは夜。
少年の青風信子石のような、透明度の高い青の瞳がふと動いた。対岸に動くものを見とめたのである。
巨大な猛禽の影であった。両翼を広げた姿は森に育ち獣に慣れた少年でさえ見たことが無いほどに大きく、体は夜そのものであるかのように黒々としていた。まるで王者のように傲然として彼は羽ばたき、優雅に川を越えた。
(梟? でも)
漆黒の梟など、少年は今だかつて知らない。
だが、その悠々たる姿に少年は瞳を奪われた。夜の闇よりなお黒い、その射干玉の羽。
梟がユージンの頭上を越えた。すれ違いざま、目が合った。
生々しい血液そのままの色。
まるで──
「あっ!」
少年は短く叫ぶと、身を起こし、飛び退った。
梟は滞空し、ゆったりと羽ばたいた。その羽が巻き起こした風に瘴気が混じる。ユージンは思わず目を細めた。
長身の男が姿を現した。銀の雨のような髪、そして血色の瞳。
「ピサロ」
ユージンは苦々しく呟くと、傍らの剣を携えて立ち上がる。彼の胸の中には、先ほど一瞬でも魔王の変じた猛禽を美しいと思ってしまったことへの忸怩たる思いが芽生えている。
「眠れぬか」 ピサロは目を細めた。揶揄を含んだ声で彼は云う。「明日のいくさに震え上がっているのか」
「そんなんじゃない」
「ひとの子は夜目が利かぬだろう。何を見ていた?」
「別に、何も」
ピサロが纏うのは黒い外套と長靴であった。しかし彼の姿は不思議なことに夜の暗がりと完全に袂を分かち、輪郭を浮かび上がらせている。ユージンは目を眇めた。魔王の身体を黒い燐光が覆っているのであった。
銀の髪はかそけき月の光を吸いこみ、ぬらりとした白い肌もまたそれに洗われていた。
魔王の身体を常に守る瘴気がふわりとそよぎ、少年の頬を撫でた。
「おまえこそ、こんな時間に散歩か」
と、ユージンは腹の底から声を出した。
「こんな時間?」 ピサロは愉快そうに云う。赤い赤い瞳が歪み、瞳孔が縦一文字に細められる。決して視認できる距離ではないのに、ユージンにはそれがありありと分かった。
「夜は我らの朋輩。夜こそが我らの昼よ」
魔王の声は、彼自体が楽器であるかのように深い。
「我ら魔族は人ほどに眠りを必要とせぬ。エルフもまた同じ。魔族も妖精族もヒトとは違う理で生きている──貴様もそうだろう、ユージン? 翼ある民の子」
「ぼくは夜になれば寝るし、疲れれば昼にだって眠る」
ピサロがクク、と喉の奥から笑い声を洩らす。
「人間とはか弱いな。貴様の仲間も今頃は夢の中か──」
魔王が片手を挙げた。
「ピサロ!」
ユージンが鋭く制しながら、剣の柄に手を掛け、天空の剣を抜き放った。聖なる力で鍛えられた刃が、頼りない月光を反射させて力強く煌めく。
魔王の左手に、禍々しい漆黒の雷がわだかまり、火花を散らしている。
「私が魔法を放てば、跡形もなく消える。いい夢でも見ながら」
「ピサロ──」
「冗談だ」 ピサロは手を振り、軽く開閉した。稲妻の先走りは、辺りに四散した。「殺気をおさめろ──また、殴り合いをするのか? 決戦の前の夜に?」
魔王は嘲りを込めて云う。
「そんなことは、しない」
ユージンは聖剣を鞘に納める。光の残滓が、鱗粉のように浮かび、すぐに消えた。
「ほう?」
ピサロの瞳に興味の色が浮かぶ。
「野犬のように吠えていたのに。一体どうしたことだ」
蒼穹の瞳がピサロの血色の瞳をひたと捉えた。
「ぼくはおまえを憎む」
ユージンは云った。首を前に向けて。
「デスピサロと云う名前を聞くだけで、ぼくの全身は憎しみで総毛立つ。きっとぼくは死ぬまでおまえを憎む、ぼくの魂にはおまえの名が焼き鏝のように刻印されている。それはもう止められない。それだけのことをおまえはしたんだ」
ユージンは云った。語る言葉は剣呑であるのに、その口調は落ち着いていた。
「けれど」
ユージンは言葉を続ける。
「けれどぼくは、おまえが哀れだ」
薄雲が爪月を隠した。
勇者と魔王の影が、暗がりに溶けた。
「ぼくはおまえと同じように、大切な人を殺された。頭がおかしくなりそうだった。力のない自分がもどかしかった。でも、それでもぼくは、自分じゃない何かになろうなんて、一度だって考えたことなんかありはしないんだ」
ユージンは静かな声で云う。その言葉は決然としていて、ピサロに反駁の隙を与えない。
少年の声はせせらぎよりも低く、それなのに不思議な響きでそれらを圧して、辺りにこぼれていく。
「憎しみも哀しみも分かち合ってくれる人たちがいるから、ぼくはそれを飼い馴らすことができる。ぼくには進化の秘法なんて要らない。ぼくはぼくだ。この体と心だけが全てだ。どんなに脆くても、すぐに折れても、ぼくは誰にも、何にも、これだけは渡さない」
ピサロは、黙って聞いている。その表情からは揶揄の色が消え、笑みに歪んでいた口元はいつしか固く引き結ばれていた。
「だからぼくは二度と憎しみのために拳を振るわない。そしてぼくは」
少年は大きく息を吸い、一気に云った。
「ぼくは、おまえが哀れでならないんだ。自分の力の無さを憎んで、憎しみで自分すら失くしてしまった、孤独な魔族の王様。ピサロ、おまえが」
再び月光が、対峙するふたりを照らす。
月はつるりとした、抑揚のない光線を彼らに注いでいる。一対の彫像のように勇者と魔王は立ち尽くしていたが、彼らの髪は夜風になびき、主たちが石でも鋼でもないことを示していた。
ひときわ強い風が、彼らの間を走り抜け、川面を渡って行く。
「──小賢しい」
ピサロが身じろぎと共に口を開いた。
その声は未だ、由緒ある楽器のごとき響きを失っていない。
「その脆き肉体。はかない魔力の器。それをしか持たぬ貴様が、私を哀れと云うか。この私を」
魔王の身体から、もう何度目かも知れぬ瘴気の渦が押し寄せる。それは更に濃さを増し、少年の肺腑を苛んだ。
ピサロは言葉を続ける。
「よかろう、運命の子。このピサロは貴様に誓ってやる。私はこの生まれたままの身体で、憎しみのためでなく、私が私たるために戦おう」
魔王の美貌が闇の中に浮かぶ。整った顔が動き言葉を紡ぐさまは、まるで絡繰人形のようにも見える。
だが彼は、彼の脳髄から湧き出る言霊を口の端に乗せている。人形などではなく。
「私は魔族の王たる以外の己を知らぬ。玉座はこの世にただひとつ。他の何物もその玉座を占めることは許されぬ──我が覇道は血塗られたものとなろう。だが、ユージン。私はどこまでも私としてそれを往こう!」
謳うように、朗朗と、魔王は云った。
「……おまえの覇道が再びぼくたちの暮らしと交わることがあったら──」
と、ユージンは、ピサロを見据えたまま云う。
「それがぼくたちに害をなすなら。ぼくたちは今度こそおまえを倒す」
「それでこそ勇者」
ピサロは笑った。戦場で好敵手を認めた古つわもののごとく。
ピサロの姿がふと輪郭を失う。
外套は風切り羽に、銀髪は漆黒の羽毛に、黒い長靴は鋭い鈎爪に。
彼は再び優雅な黒梟に姿を変じた。
「ひとの子が生きながらえるために。貴様が勇者であるために。私が魔王であるために。明日のいくさは、そう云ういくさなのだ──己が、己たるために。裏切り者もまた、彼奴の干からびた脳味噌でそう考えているであろうよ」
梟は去った。
少年はただひとり取り残された。彼の四周にわだかまる闇は、先ほどより薄れている。
魔王が連れて行ったのだろう。
ユージンは足元を見た。そこにピサロの残した射干玉の名残がひとひら、羽根の形をして横たわっていた。
個人サイトから移管したドラクエ4の小説です。2008年から10年ごろ初出、2021年5月pixivに掲載。
以下は当時の更新報告のブログから。
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「6章」と云うものの存在を自分のなかでどのように位置づけるべきかずっとずっと考えていました。
そのひとつの方向が見えた、そんな話になりました。
なので、「どうやって扱うか決めかねていた」、「発火」というお話を、このサイトのドラクエ小説の一連の流れの中に持ってきました。
「発火」と今度の「射干玉の」というおはなしには明らかなつながりがありますが、登場人物の心情は断絶しています。6章でなぜ彼らは共に戦えたのか、今回はユージンの側からアプローチをして、輪郭が見えたように思います。が、しかしまだまだ答えは出ていません。
この溝はすこしづつ埋めていくことになると思います。
とある御方がお寄せくださった「ピサロを書いてほしい」というお声に触発されてできた話でもあります。機会とアイデアをいただいたことに、心から感謝いたします。こんなん出ましたけども、こんなピサロでよろしかったでしょうか。
悪役がかっこよくないと勇者も輝けませんが、悪役が目立ちすぎてもまた、よろしくない。
カタキ役というのは何とも難しいものです。
「傲岸不遜に、しかし美しく、魅力的に」ピサロを描くのが理想です。やはり魔王なので、禍々しく、キモかっこよく、描きたいなあと思いますが、まだまだ理想の3-4割くらいです。
また主人公に魅力が無くても、カタキ役に光が当たらない。
ということで、ユージンにももうちょっと頑張ってもらわねばいかんなあという感じです。
クリフトとアリーナがどうやって結ばれていくか、心の壁をどうやって取り除くか、そういう太い縦糸が弊サイトのお話たちにはあります。
その縦糸に並行するようにして、勇者の物語も(お気づきかとは思いますが)あります。
いろんな横糸を絡めながら書いていけたらいいなあ~と、ぼんやりと思っております。
今後ともお暇なときにお付き合いいただければ、幸せです。