会食の席。サントハイムの長老たるブライの見事な話術と、王の篤実な人柄で、場はたいそう盛り上がった。
王は遠まわしにサントハイムに対して何の野心も持たぬこと、これまでどおりエンドールを中心とした大陸の同盟の約定をたがえぬことを、白髪の魔法使いに向けて匂わせた。これには、老人も実を言えば胸をなでおろした。
強国エンドールを挟むとはいえ、ブランカは歴史ある大国である。広い国土を支配するだけの力が、この国にはある。国境近くのコナンベリーや、アネイルなど、商人たちが幅を利かすクセのある街にも、離反や謀反を許したことはないのだ。もしエンドールやボンモールと手を組み、サントハイムに攻め込んだりしてくれば、ひとたまりも無い。エンドール王は既にサントハイムとの同盟の継続を宣言してはいたが、ブランカがエンドールに対して協定を持ちかけないとは言い切れぬ。ブライはそんな懸念を抱いていたのだ。
故国の人々を探す旅はまた、故国にあだ為す虞のあるものたちに牽制を加える旅でもあった。堅苦しいことを嫌うアリーナを、無理やり諸国の王と会見させたのもまた、サントハイム王国の後継者が健在であることを知らしめる為である。
老師の意図が解らないうちは、アリーナはあくまで隠密の旅を希望した。しかし、じいやに本義を聞かされてからは、大人しくそれに従った。むしろ率先して、他国の王侯貴族に見下されない堂々たる振る舞いを身に着けようとすらしているのであった。
皮肉なものである。王威が未だ強固で、アリーナがサントハイムにいたころ、彼女は礼儀作法や式典の順序を覚えるのを心の底から嫌がっていた。建前上の職制は王国内の魔法使いたちの統括だが、実のところサントハイムの表向にも奥向にも精通し、王家の家老とでも言うべき存在であったブライは、よく王に請われてアリーナに王権の後継者たるものの心得を説いて聞かせたものだ。勿論姫はつまらなそうであったし、ひどいときには脱走すら企てた。彼女の愛馬を隠したり、食事の直前に参上しておあずけを食わせたり、老人もそれはそれは頭を使って姫に教育を施そうとしたのだ。
その苦労が、今は嘘のようだ。
ブランカの王都を発ってから数日。彼らは、大陸を寸断する大砂漠のとば口にたどり着いている。
季節はすでに初秋を過ぎ、秋の深まりを予感させる空の青さが続いていた。だが、砂漠にはそのさわやかな季節のもたらす恩恵は何処にも無い。
森と砂漠の境目で宿屋を営むおやじに馬車を借りることが出来た。と言うよりも、それも宿の生業のひとつであった。ただ、宿でいちばんの名馬は出払いっきりだということだったので、それより日数のかかる旅路であることを予め告げられた。
「わたしは構わないわ。先へ行けるのなら」
姫につらい思いをさせられないと、何とか名馬を引っ張ってこられないか交渉を始めた魔法使いの隣で、アリーナは朗らかに云った。
「しかしアリーナ様、道中は厳しいですぞ。砂漠は朝夕は凍てつき、昼は炎熱地獄じゃ。少しでも日数を縮めたほうが良いような気がいたしまするが」
「わたしは平気。あなたたちが大丈夫なら。だって、サントハイムでも砂漠は越えたじゃない」
アリーナは重ねて云う。従者2人が姫の健気な言葉にたてつくはずも無かった。
砂漠の道中は想像以上に厳しい。
彼らがかつて踏破したそれとは比べ物にならないほど、この砂漠は広大で、暑気が厳しかった。これに比べればサントハムの砂漠など、砂漠とも呼べぬ。砂地、程度のものだ。
宿屋のおやじに渡された、身体をすっぽりと覆う黒い布の意味を、彼らはようやく理解した。暑熱の砂漠で身体を覆う布も無かろうと思っていたのだが、それは大きな誤りだった。布で太陽の光から身を守らねば、すぐさま身体が参ってしまうのだ。
暑さからだけではない。夜の寒さにも、その布は役に立った。
砂漠の夜は冷える。さえぎるものが無いということの恐ろしさを、彼らは改めて知った。
次のオアシスまであとひといき。馬車は日が暮れてなお、水源を目指して進んでいる。
荷台の中には、彼ら3人しかいない。時折、馬が鼻を鳴らす音や、御者が馬の機嫌を取る声が聞こえてくるだけだ。夜空は砂漠と同様に広く、そして濃密な色合いをしている。月と星の明かりが、荷台の中を明るく照らしていた。
「姫さま。もうすぐ、姫さまのお誕生日ではないですかな」
と、ブライが云う。
アリーナは宙を見ながら指を折り、
「そうね。あと5日くらい」
と、答えた。
「もう17歳におなりになるか」
「うん」
「お祝いをしなくてはいけませんね」
クリフトが云う。
アリーナは嬉しそうに笑った。しかし、首を横に振った。
「お祝いは、いいわ」
「何故です?」
「いいの、とても、そんな気分じゃないから」
姫は答える。従者たちは黙った。
馬車の揺れだけが、そこに満ちる。
沈黙を破ったのは、アリーナだった。
「それに、もう、わたしはあなたたちに、たくさん、たくさん貰ってるから。これ以上、貰えないわ」
そう云って笑う。砂漠の苛烈な太陽が、少し姫をやつれさせている。けれども、その笑みには力が満ちていた。
ブライは唇の端をゆがめた。うっかり目から塩辛い水が出そうになって、慌ててしわぶきをひとつ。口うるさいじいやの面をかぶって、鷹揚に頷く。
「姫さまも、ご成長なされたのう。お城におわした頃の我侭が嘘のようじゃ」
「そんなの、」
アリーナは照れくさそうに俯き、「わたし、御者台に出てくる」と誤魔化すように呟いて、荷台から軽やかに出て行ってしまった。
何とかじいやの威厳を保てたことに安堵して、ブライはため息をついた。ふと傍らのクリフトを見ると、こちらはあからさまに目に涙を浮かべていた。
「何を泣いておるか、たわけめ」
「いや、あの」 クリフトは洟をすする。「姫さまのお言葉、この身にはあまりに勿体無く思いまして」
「本当じゃ。わしはともかく、おぬしにまであのご厚情、まことアリーナさまの分け隔てなさには頭が下がるわ。ああ、泣くな、鬱陶しい」
「も、申し訳ございません。少し、落ち着いてきます」
クリフトはもう一度盛大に洟をすすると、荷台を出た。
馬車は2頭立てで、御者の後ろにも人が座れるスペースがある。クリフトの主君はそこに膝を立てて座り、御者とにこやかに会話をしていた。少し躊躇したが、クリフトも姫の傍らに座った。
「あら、クリフト」
「多少、夜風に当たろうかと思いまして」
少し鼻声で神官は云う。
そして、ふと尋ねた。
「アリーナさま、しつこいかもしれませんが、本当にお祝いはよろしいのですか?」
「本当の、本当。大丈夫。あとにとっておく」
「あと?」
「お父さまたちを見つけて、みんなでサントハイムに帰ったら、お祝いしてもらうわ」
そうきっぱりと告げるアリーナの横顔は、強い決意に満ちていた。だが、明るい口調の裏に、たとえようのない寂しさをにじませていた。他のものが聞けば解らないようなそれでも、クリフトには解った。
アリーナははっきりとものを言う性質であった。喜怒哀楽、暑い寒い、眠い、そう云ったことを憚らず口にした。アリーナがそう訴えれば、彼女の周りの人間はその不便を解消するために立ち働かねばならなかったが、彼女はそれが許される立場の人間であった。
そんな、城にいた頃のアリーナがしばしば口にしたのが、「つまらない」と「寂しい」の二語であったことを、クリフトはよく覚えている。そのたびにクリフトは困り、懸命に彼女のご機嫌をとった。特に、「寂しい」と云われると、つらかった。彼女の乾きを本当に癒すのは、多忙な父王の温かいてのひらか、亡き王妃の面影だけであることを、クリフトは知っていたから。
その彼女が、「寂しい」と言う言葉を心に秘め、気丈に振舞っている。
(──この方は)
姫は成長しているのだ。幼い甘えを振り払って、ひとりの女性として、立とうとしているのだ。
心細かろう。苦しかろう。どんなに不安であろう。
だが彼女はそれを心にしまい、従者にすら感謝の言葉を述べるのだ。
神官の心に、急に狂おしいほどの愛おしさがこみ上げてきた。熱く、甘く、青年の胸はきしんだ。自分が手品師のように、サントハイム城のみなを、指を鳴らすだけで姫の前に出現させることが出来たなら、どんなに彼女は喜ぶだろう。そんなことすら夢想した。そして、大手品師ではない自分をうらんだ。
「今のわたしには、ブライとクリフトがいてくれるだけで、すごいプレゼントだわ」
アリーナがクリフトを見て云う、そして笑う。月の光を浴びて、星の妖精のように。
「そんな、アリーナさま。勿体のうございます」
クリフトはまたも緩んできた涙腺を懸命に引き締めながら、云った。
「わたくしも、アリーナさまに、たくさんたくさん、いろんなものをいただいています」
「本当? 我侭でいやにならない?」
アリーナは冗談めかして云った。
「とんでもありません」
クリフトは大真面目に首を振る。
「このクリフト、アリーナさまの」
勢い込んで、云いそうになった言葉を、すんでのところで飲み込んだ。
沈黙が下りた。
馬が鼻を鳴らす。車輪が砂を踏みしめる。
満月がふたりを見下ろしている。
「……アリーナさまの御為に、卑小なる身ではありますが、尽力いたしたく存じます」
青年は、居住まいを正してそう云った。
アリーナは笑って頷く。
「ありがとう!」
そして姫は立ち上がる。
「わたし、荷台に戻るわね!」
元気に云って、奥へひらりと姿を消した。荷台の入り口の仕切り布が、白く揺れる。
クリフトはあとにひとり、取り残された。
口から零れ落ちそうになった言葉が、まだ喉元でたゆたっている。
アリーナの成長は、クリフトの中の恋情をも成長させていた。こんなに素晴らしい女性は他にないと云う確信は海溝のごとく深まり、彼女のためなら死ねると、彼は半ば当然のごとく思っていた。傍に座り、会話を交わすことすら、クリフトに陶酔を齎した。幼い恋情はもはや、おかしがたい愛情となり強い鼓動となって、体中に脈打ち始めていた。
だが、止めようのない若者の猛りに、冷水を浴びせるのもまた、アリーナだった。
彼女が王者に相応しい人間になればなるほど、クリフトは己と彼女を隔てるものを自覚しなくてはならなかった。
青年は、知性のある人間だった。獣ではない。言葉を操ることが出来る。だから青年は言葉を駆使し、懸命に自分の心を糊塗し、忠実なしもべとして振舞うことに注意を払った。それは青年にとっては当然のことで、苦しかったが、彼にはその選択肢しかなかった。
クリフトはため息をつき、先ほど彼を襲った熱狂を忘れ去ろうとする。
ふと、幼い日のことを思い出した。「寂しい」と言うアリーナを必死で慰めた午後のことを。あのときの自分は本心から彼女に笑ってもらいたいと思っていた。彼女が笑うと、自分も嬉しかったから。なんの隙間も、邪念も、わだかまりもなく、少年の日の自分は正直に心をさらけ出し、彼女に接していた。彼女が大好きだったから。
今でもこんなに大好きだ。
けれども、全く違う。
あと数日後にひとつ大人になる主君を重ね、大人になるということは中々しんどいものだ、と青年は思う。
「クリフト、寒くないの?」
荷台の奥からアリーナが青年を呼ばわる。
「あ、今、戻ります」
青年は肩から落ちかかっていた布を身体に巻き付け、立ち上がった。馬車が大きく揺れ、クリフトは辛うじてバランスをとった。
深呼吸をひとつ。
布で身体を隠すように、クリフトは心をも隠した。用心深く。大人の狡猾さで。
2008−09年ごろ個人サイトにアップ、2021年5月pixivに投稿。