野営の夜。
老人と若者は、交代で火の番をしていた。その、入れ替わりの時間であった。
野営に火は欠かせない。炎は、森の獣や、剣呑な魔物を寄せ付けないし、思いがけず冷え込む夜気を暖めてくれる。
次第にくっきりとしてくる意識の輪郭が、傍らで不寝番をしている若者に標準を合わせる。若者は外套にすっぽり包まりながら、視線の主たるブライの反対の方角に視線をやっていた。其処には、彼らの主君である姫が、寝袋の中で身じろぎひとつせず横たわっていた。
寝袋が規則的に上下していることを目視できなければ、ただの大きな寝袋がひとつごろんと転がっているに過ぎない、そんな錯覚を起こしてしまうくらい、姫の寝姿は静かである。
若者の視線はそれに釘付けになっている。静かに。けれども、ひたむきに。その間に、瞬きを幾度か。けれども、視線は外さずに。
寝袋からはみ出る、赤銅色の髪にすら、若者の憧れが丹念に練り込められていくような、そんな熱を帯びた表情で。
若者にとって至福ですらあろうひと時をより長く供してやるほど、ブライは優しくはない。
「うぉっほん」
わざと咳払いをひとつ。
それからさも、今起き上がったかのように、寝袋から這い出た。
「ブライ様。…お目覚めですか」
いつもより少し上ずった声で、とってつけたように、クリフトが云う。
「時間じゃからな」
ブライはことさらにぶっきらぼうに答えると、外套を巻きつけ、焚き火のそばに座り込んだ。じッとクリフトを睨めつけると、彼は視線を不自然にそらした。
炎にくべられた薪の中から、新たな火が生まれた。その若いほむらは刹那、赤い腕を夜空に向けて伸ばしたが、すぐに炎火の中に沈みこんだ。若い神官は、手にした大ぶりの木の枝で、その即席の暖炉を突付いた。
「あまりつつくでない。火勢が弱まろうが」
云いながら自分用の鉄葉のカップを手に取ると、それは寝ているうちにすっかり冷えてしまっていた。
「まだ夜は長い」
その通り、夜半を少し回った刻限である。朝日が森の夜露を乾かすまでには、まだかなりの時間が必要だった。
「も、申し訳ございません」
若者は詫びた。
「ふん。早く寝ろ。時間がずれ込んでしまうわい」
云いながら、老人はカップに口をつける。川で汲んだ水を沸かした、ただの冷え切った白湯である。
「それでは、失礼致します。次の交代の時間まで」
クリフトは立ち上がって頭を垂れた。若者の影が、周りの大樹の幹にゆらゆらと落ちた。まるでダンスを踊っているかのようだ。クリフトはおのれの寝袋まで歩み寄ると、外套を脱いでもぞもぞとその中にもぐりこんだ。ブライは何の気なしにそれを眺めながら、ふと彼の父親のことを思い出した。
──ふん、よく似てきた。
そんな思いである。
アリーナとクリフトが幼い頃からの主従であるのと同じようにまた、アリーナの父、サントハイム国王と、クリフトの父もまた、幼い頃からの主従であった。そしてみな、城の最古老であるブライが、成長を見守ってきた。快活で、天衣無縫で、時に無鉄砲な主君。それを諌めつつ、周りの口うるさい年かさの世話係たちから庇う従者。その構図までもが同じなのは、血のなせるわざか。それが解っているからか、王はクリフトを可愛がっていた。
縞目の大理石の壁が、魔法の光の灯りを吸収して、光を放つようである。
鬱金色と瑠璃紺。二尾の獅子。サントハイム至尊の色と紋章が、その部屋の調度を彩る。
王の書斎である。
陽が暮れ、夜半を待つばかりの刻限、度々、その間に招かれた。王の話は益体もない世間話から、時として血なまぐさい話まで、多岐にわたるが、その晩は、いつもと少し毛色が違った。
「今夜、アリーナが壁を蹴破るそうだ」
こともなげに王は云った。齢40。人生の黄金期に向け、彼の横顔には気迫が漲っている。だが、心なしか機嫌が悪そうである。
ブライは答えず、眉を動かしたのみだった。
「其処までやるか。まったく呆れた娘だ。誰に似たものやら」
「ふふ」 ブライは笑った。「誰でございましょうなあ」
「わたしではないぞ。あれは妻に似たのだ。マルガレータはああ見えて、意思のこわいおなごであった」
「そうでしたかなあ。老いぼれの頭には、お優しい妃殿下のお言葉しか残っておりませぬが」
「ふん。みなこぞってそう云うのだ。髪の色も目の色も性格も、わたし譲りだとな」
王はソファに深く身を沈めた。瑠璃紺の天鵞絨に、赤銅色の髪がよく映えている。
「ブライよ」
姫と同じ鳶色の瞳が、老人の目を見据えた。
「あれとともに行ってくれるな?」
「御心のままに」
「今ひとり、供をつける。クリフトを行かせようと思う」
「ほう」 老魔法使いは目を眇めた。「どんな手練が付くかと思えば、あのうらなりですか」
「アリーナの気性をいちばんよく解っているのは、あやつかと思う。癒しの術も使えるし、剣も使う」
適任といえば、適任か。
「御意」
ブライは立ち上がった。
「城の皆にいとまも告げられぬのは、ちと心苦しゅうござるが」
「なに、戻ってきてから盛大に出迎えよう」
一礼して辞するブライを、王は珍しく立ち上がって、書斎の出口まで見送った。魔法使いがドアのノブに手をかけたとき、王が囁くように云った。
「アリーナを守ってくれ。なに、体は頑丈だ。自分で何とかするだろう。だが、ああ見えておなごだ。押して頼む」
「御意に」
ブライは頷き、ドアを開ける。衛兵が一礼してそれを出迎えた。
「ブライさま」
若い男の声がかかる。廊下に、すでに旅装を整えたクリフトが控えていた。
「ぬかりはないな」
「出来うる限りは」
クリフトは頷く。
「姫は未だお部屋か?」
「姫さまにおかれましては、未だ御出立の気配なく」
「そうか」 ブライは白髯をしごいた。「では、裏門でお待ち申し上げるとしよう」
出立の夜半の王の言葉を思い出す。
「守ってくれ」とはなにから守るべきだったのか。巷間に溢れる恋の惑いと軽薄な愛の夢からか。乙女を誘惑するけしからぬ色男からか。姫の体に流れるサントハイム王家の血脈と契りたがる有象無象の野心家どもからか。
──それとも、姫の間近で眠る、若造からか。
男にとって初恋の君とは、生まれて初めて食べる無花果のようなもの。いつまでも忘れがたい甘さをその胸に残す。痛みとともに。
初恋の忘れ形見を胸に秘めている。そのくらいの見立てのつもりだった。
しかし、誤算であった。
主君の姫から「ピクルス」と揶揄される、うらなりのような若き神官とて、雄であった。いつかは女を守り、女を欲する雄獅子になるものであった。すっかりそれを失念していたのは、ブライにとってもまた、クリフトとアリーナの赤子のころの残像が、郷愁のように彼の胸にこびりついているからに他ならなかった。
いつの間にか仔獅子は若獅子となり、鬣めいたものを生やしていた。それに気づいたときブライは、己の甘さに舌打ちしたくらいだ。
それに陛下も気づかずに、この若造を供に付かせたとすれば、いやはや。
(まこと、親心とは安穏なものよ。今はまだ、己の心にすら向かい合う度胸もない小僧めに過ぎぬが、小僧なりにいっぱしの男になりかけよる。それを予見すらせなんだとは)
老魔法使いは、若者が眠る寝袋を見やった。はくしょん、と大きなくしゃみがその中から聞こえてきた。
(暢気なもんじゃ)
パチパチ、と大きな音を立て、焚き火の中に突っ込んだ生木が爆ぜる。若々しい枝はこれこのように、火勢に煽られて自爆めいた燃え方をする。その内に漲る生命がゆえに。
(若造よ、せいぜい足掻くがよいよ。陛下の命にて姫さまを「お守り」するのもわしの大事な使命でな。そなたの青臭い頑張りを邪魔するのが、とも云い換えられるかな)
先ほどまでは気難しげに引き結ばれていた、ブライの口元は、いつの間にか綻んでいた。
若者の足掻きは、悩みは、地団太は。
(ふん)
やはり、少し、眩しいものである。
2008-09年ごろ初出、2021年5月pixivに掲載。