五月、沖縄、麦星。

沖縄は夏だった。
カレンダーはまだ5月の下旬だったが、この時期には珍しく最高気温は30度を超え、昼の長さも相まって、沖縄はもう夏だった。そして湿度は高く、歩道の脇に植え付けられた南西の花々の香気が、じっとりとした重みを伴って漂っていた。
立っているだけで汗ばんでくるような陽気だったが、建物の中はどこも空調が効いていて快適だ。彼らが陣取っている居酒屋も、それは同様だった。天井の高い店内には、「オリオンビール」の提灯が揺れている。カウンターに並んだ彼らは、目の前の沖縄料理を思い思いにつまんでいた。
「明日、友達のアメリカ人が来るんだけど、そいつ、ブラジリアン柔術使いで超強えーんだよ」
天童凱が、思い出したように言った。
「へえ。戦ってみたいな」
リョウ・サカザキは、この座が始まってからいちばんの興味を示す。
「俺ん家に午前中に来るって言ってんだけど」
「そうなのか。凱の家、ここからちょっと歩くから、いっそのこともう一晩泊めてもらえないか」
「今日も俺ん家泊まんの?」
凱は少し驚いた声をあげた。昨日から沖縄にやってきた年上の友人は、確かに昨日は凱の家(と呼べるような立派なものではないが)に泊まった。けれど、今日は違うと、なんとなく思っていた。1日違いでやって来た、彼の「友人」と合流するのだと思い込んでいた。
「迷惑ならやめておくよ」
リョウは言ったが、凱は答えた。
「いいよ。その代わり飯作れよな」
「助かるよ」
リョウは人懐こく笑う。そして、傍らの「友人」に英語で話しかけた。きっと今の会話の内容を告げているのだろう。
普段は他人の顔色など伺おうともしない凱だったが、ただこの時ばかりはリョウの友人の表情が気になった。自分の真横に座っているその人を、横目でちらりと盗み見る。その人…キングは、それまでと変わらない機嫌の良い顔のままでリョウに向かって頷き、泡盛を傾けた。
話は弾んでいたが、店の閉店時間が迫っていたので、彼らは冷房の効いた快適な店内から、蒸し蒸しとした空気の漂う外に出た。店に入る前はまだ明るかった空は、今やすっかり暗くなり、中天にはうしかい座のアークトゥルスが美しく輝いている。好天は夜も続いていて、星々は夜空にばら撒かれたガラスのかけらのようにあちこちにまたたいていた。
「ごちそーさん」
「とんでもない。宿代にもならないよ」
リョウが首を横に振る。
傍らのキングが口を開いた。
「じゃ、私はホテルに戻るよ。また明日ね」
短くした金髪と、同じ色のループピアスが揺れた。白いコットンポプリンの、斜めストライプ柄のロングワンピースが涼しげだった。
「おう、おやすみ」
「どーも」
片手を上げ挨拶を交わすと、キングは身を翻し、商店街をゆっくりと去っていった。
「朝飯の材料、買って行こう」
キングの後ろ姿を見送ったリョウは機嫌良く言う。盃を重ねた泡盛が、彼を普段より少し陽気にしているようだった。

翌朝の朝食の材料以上の食品まで宿代がわりに買ってもらい、凱の住まいにたどり着いたのはそれから数十分後のことだった。家賃はタダに等しいが、その分交通の便は悪い。もっとも、普段は街に出ない凱にとって、それはあまり気にならなかった。
そばの山や海で修行をしたり、顔見知りになった米軍キャンプの軍人や空手道場の空手家と手合わせしたり、現金が尽きれば肉体労働のアルバイトをしたり。凱の毎日はそんな風だったし、試合の相手は今回のリョウのように向こうから訪ねて来てくれるから、街に出る機会は本当に少なかった。
凱は、主人の帰宅に喜んでじゃれついてくる愛犬をいなしながら、冷蔵庫に食材を突っ込み終わると、
「シャワー浴びてくるわ」
と部屋を後にした。凱にはリョウを客扱いする気はさらさら無く、一番風呂を譲るつもりも無かった。
リョウも瑣末なことを気にした様子もなく、「おう」と答えて勝手に冷蔵庫から先ほど買って来た食材の中のミネラルウォーターを取り出し、コップに注いでいた。
凱の住まいは、地主が好意で貸してくれている、地主の畑のそばの見張り小屋だ。かつて猪の獣害対策で建てられたもので、電気柵が普及してからはほとんど使われていなかったらしい。土間と部屋一つ、シャワーは屋外、ガスは無しと言う物件だったが、凱はすぐに慣れた。むしろ電気が通り、水が出ることを奇跡だとすら思っている。
どちらからともなく寝支度を整える。凱は床に直接置いてある大きな物入れの中からキャンプ用のシュラフを取り出すとリョウに放り投げ、自分は簡素なベッドに寝転ぶ。愛犬の番長は、土間の寝床でのびのびと寝ていた。
「電気消すけど」
「ああ」
リョウが答えたので凱は電気のスイッチを切った。小屋の中は真っ暗になり、ブウンと言う古い冷蔵庫のモーター音がやけに大きく聞こえた。
凱は今日の出来事を思い出す。朝起きて、昨日からやってきた年上の友人とまず手合わせをして(相変わらず彼は強く、凱にとっては2日続けて腑に落ちない結果に終わった)、そのあと彼から「友人が来るから紹介するよ。格闘の経験もあるんだ」と引き合わされた相手が女性だったのは意外だった。てっきり、リョウと並び称されるイタリア人の空手家でも来るのかと思っていたので。
今まで、女性と試合をすることはほとんどなかったが、軽くスパーリングをしただけでも彼女の強さは分かった。スピードも、打撃の重さも、凱が今まで戦ったことのあるムエタイのプレイヤーと遜色がなかった。「久しぶりだからなまってるね」と本人は自嘲ぎみに笑っていたが、では全盛期はどれほど強かったのかと思わずにはいられなかった。
全く、世間には強いやつが沢山いる。凱はそう思う。自分のベッドの足元で寝転がっているリョウにも、思えば凱は勝ったことがなかったのだった。
沖縄という場所柄、空手道場はそれこそコンビニエンスストアのように街中至る所にあった。空手家と戦うのは慣れているはずだったが、リョウの極限流はアレンジされすぎていて、空手家と思って相対すると逆にやりづらかった。
率直に悔しかった。ただ、その悔しさをはねのけるためには修行して自らを鍛錬するしかないことを、凱は知っていた。まだ故郷を離れての一人暮らしは終わりそうになかった。
凱は、そう思い込んでいた。強くなるためには、孤独にならねばと。
だから顔見知りになった米軍の軍人や地元の空手家が、家族の話をするのを、凱は少しばかりの反発心をもって眺めていた。もっと踏み込んで言えば、彼らが凱に勝てないのは、そのせいだとさえ思っていた。修行への心構えが足りねえんだよ、もっとストイックに打ち込めば、もっと強くなれるのに。そう思っていた。
そんな考え方が彼の頭の中にはあったので、自分の家に転がり込んできた年上の空手家が紹介してくれた「友人」と実際に会って、凱はとても意外な気持ちになったのだった。

「あのさ、怖くねーの、あんた」
リョウからすれば随分唐突な問いを、凱は発した。凱にしてみれば、今日一日を振り返った結果の、当然の帰結だったのだが。
暗闇の中から、少し驚いたような声音の返事があった。
「何が? この家か? 幽霊でも出るのか?」
「出るわけねーよ」
「違うのか?」
「付き合ってるんでしょ? キングさんと」
冗談なのか本気なのか、見当もつかないリョウの受け答えは完全に無視して、凱は本題に入った。藪から棒にプライベートの質問をされ、リョウは相当驚いたようだった。いつもは明朗な語り口の彼が、珍しく歯切れの悪い返事を寄越す。
「……まあ、うん」
凱は続けた。
「もし結婚してさ、奥さんとか、子供とか出来たら、自分が弱くなるんじゃないかとか、思わねーの? そゆの怖くねーの?」
「それは思わないよ」
リョウの回答は、今度は明瞭だった。
「だって修行の時間とか減るじゃん?」
「修行に時間の多寡は関係ない。どれだけ集中して取り組んだかだ」
「怪我出来ねーなとか、無理できねーなとか思ったらさ、強気に出れる瞬間も出れなくなっちゃうとかさ、あるんじゃねーの」
「俺は無いよ」
リョウはまたも、短く、しかしはっきりと答えた。
「俺は昔から妹を養いながら修行して来たから、そう言う感覚は無いよ。むしろ守るものがあるから修行に打ち込めたと思ってる。それに、どんなに修行に充てる時間が少なくなっても、毎日修行を繰り返すだけだ。ただ続けることが全てだ。どんなに時間が短くても、やらないよりはやるんだ。積み重ねた分だけ強くなる。それは間違いない」
彼が語るセンテンスは短く、きっぱりとしていて、彼の頭の中ではそれが明文化され、再考の余地もないということを感じさせた。きっとそれが、リョウの中の哲学なのだ。
「ふーん」
凱は相槌をうち、リョウに背を向けて寝返りを打った。そんな凱の背中に、リョウが言葉を続ける。
「凱も大人になれば分かる」
「っせーな、そこらの大人より確りしてるよ」
「それはそうだな」
リョウは笑いながら言う。
「大したもんだよ、凱は。こんなところで強くなるために一人で生きて」
「マジで言ってんの? 馬鹿にしてんの?」
「本気で褒めてるつもりだが」
腹の底がむず痒くなって、凱は黙った。リョウは続けた。
「だけどな、人との繋がりが強さを作ることもあるんだ。少なくとも俺はそうだったよ。…そうだ、キングもな」
「…ふぅん」
沈黙が落ちた。
小屋の外からは、風が畑の作物の葉を揺らす音に混じって、蛙たちの鳴き交わす声が聞こえてきた。彼らの大合唱を聞きながら、凱は気になっていたことを問う。
「なんでキングさんってあんなに強えーの? 人との繋がりってやつ?」
「俺からは勝手に話せないよ。本人に聞いてくれ」
「聞いたら教えてくれっかな」
「さあ、どうだろうな」
「つか、あれで『なまってる』って何? 昔どんだけ強かったの?」
「昔お互い本気で戦ったとき、俺は蹴り殺されるかと思った」
リョウは苦笑混じりの声でそう答えた。そして、そろそろ寝るか、と呟くように言う。
ひと呼吸、ふた呼吸。
凱が、外の蛙たちの声に耳を傾けているうちにリョウは寝付いたらしく、静かになった。
「おっさん寝るの早えーよ」と凱は声には出さずに思い、自分も目を閉じる。今日もよく修行した。実りの多い1日だった。

“人との繋がりが強さを作ることもあるんだ。”

リョウの言葉を反芻する。そして、会わなくなって久しい家族のことを思う。別に仲が悪いわけではなく、今よりも数年分若かった凱が、修行するのであれば、一人になって打ち込んだ方が良い、と思って家を離れただけだった。
凱を可愛がっていた祖母は悲しんだが、「死ぬわけじゃねーよばーちゃん」となだめた。実際、今生の別れと言うつもりなど毛頭なかった。だが、家を出たら出たで、日々に忙殺されて連絡が遠のくのは事実だった。祖母はモバイルそのものを持っていなかったし、凱は凱で、モバイルの充電が切れているのにも気づかないくらい通信機器に頓着が無かった。
そんなことだから、凱はもう最近はほとんど、家族と連絡をとっていなかった。
誰のために強くなるのか。それは自分のためだった。強くなりたい、今よりももっと、ずっと。その思いは変わらなかった。孤独であればあるほど、自分の時間を注ぎ込めば注ぎ込むほど、強くなれるのだと思っていた。
けれど、自分の考えはそうではないと言い切る男に、凱は勝てていない。
「……」
凱はまた、歳上の友人の言葉を思い返した。そして、改めて家族のことを思う。思考はふらふらと定まらず、やがて凱もまた、眠りの中に引き摺り込まれていった。

翌日は、沖縄の梅雨時期らしい天気だった。曇天と快晴が交互にやってきては、その合間に、思い出したようにスコールめいた土砂降りが襲来する。洗濯物を取り込むべきか出したままにするべきか、人々の頭を悩ませる、そんな天気だ。
そして、これもまたこの時期らしい、体の内側からじわじわと発汗してくるような、肉体を侵食するような暑さと湿度。亜熱帯ならではの空気が漂っていた。
約束通りの時間帯に、ブラジリアン柔術をよく修めたアメリカ人は、小回りの効く原付に乗ってやってきた。原付が三輪車に見えるくらいの大男だ。凱とは、彼がふらっと訪れたブラジリアン柔術のジムで知り合い、それ以来、数週間に一回はこうして異種格闘技戦の手合わせをしていた。お互い下手な外国語と母国語を使ってのやり取りだったが、気が合うのか不便を感じたことはない。
最初に凱が手合わせをし、綿密な研究の成果だろう、凱が勝ち切った。その次にリョウが、「柔術使いは久しぶりだなあ」などと嬉しそうに言いながら戦いを申し込み、相手が仕掛けてくる寝技をうまく掻い潜って戦った。戦績としては二勝一敗でリョウの勝ちだった。手合わせのあと二人はお互いを讃え合い、将棋の感想戦のように、戦いを振り返りながら語り合った。リョウが親切にも通訳してくれたので、凱は試合に臨む時の友人たちの考えをより深く聞けたし、自分や彼らの戦いに対する自分の思いも伝えることができた。今までに無い収穫があった。
じゃあ俺は帰るぞと英語で言ってきた柔術使いに、凱はたどたどしい英語で応じた。
「あのさー、TJ」
今度、英語教えてくんね? と続けると、アメリカ人のTJは快く頷く。
「じゃあ毎週来てやるよ」
そう彼は言った。
「サンキュー」
凱が礼を言うと、TJはまたなと言い残して原付に乗り、去っていった。
「偉いな」
二人のやり取りを聞いていたリョウが笑う。凱の英語力は今のところ4〜5歳児くらいのもので、昨日もキングとはほとんどリョウの通訳でコミュニケートしていた。
「周りに英語話す奴が増えた」
凱はリョウの褒め言葉には眉毛ひとつ動かさず、ぶっきらぼうに答える。
友人知人に英語のネイティブスピーカーが増えたのは、事実、そうだった。
そして、凱は、彼らから強くなるための何かを得たいと思ったのだった。それは、言わないでおいた。
向学心を見せた生徒を頼もしく思う教師のような目つきでリョウは凱を見やり、次いで、言った。
「凱は耳が良いから、すぐ上手くなる」
「あっそ」
「俺もそろそろ、お暇するよ」
「あ、帰んの」
「怪我に気をつけてな。また戦ってくれ」
「今度は宿取って来いよな」
「ははは、世話になったな」
リョウは凱の憎まれ口を笑い飛ばし、じゃれつく番長の頭を撫で、下駄の音を響かせながら、去った。
名残惜しそうに番長が数回吠えた。凱は早々に見送るのをやめて、客がいなくなった自分の小屋を見やった。リョウが寝床を借りた辺りは、今し方まで誰かが居たとは思えないほど整然としていた。
床に放り投げていた携帯電話の充電を確かめる。朝一番に充電を始めたから、バッテリーの残量は100%だった。凱は、電話帳の一番上に登録されている番号を呼び出し、通話ボタンを押す。呼び出し音が何回か続いた後、懐かしい声が凱の鼓膜を叩いた。
「ばーちゃん? 俺だけど。……元気だよ。あのさ、今度久しぶりに顔見に帰ろうかと思うんだけど。うん。…泣くなよばーちゃん…元気だよ、俺は」
背を丸め、凱は電話の向こうの大切な人にぼそぼそとそう告げる。
人との繋がりが強さを作ると言う、年上の友人の言葉を鵜呑みにしたわけではなかった。ただ、あんなにも強い友人が言うのなら、きっと家族と語らったりすることは修行の邪魔でも無駄な行為でもないのではないかと思う。凱はそれを確かめたかった。
主人のふくらはぎに頭を擦り付ける愛犬の温もりを感じ、耳元に家族の温かい声を聞きながら。
若者はそんなことを思っていたのだった。

fin.

 

 


イラストの方で描いた「亮凱沖縄合宿」の続きです。そして一応、この小説で亮と凱の沖縄合宿は一段落です。もともと、BURIKI-ONEの坂崎リョウと天童凱が大好きで、この二人が大会の後も何となくウマがあって仲良くしてたらいいな、そんな二人の凸凹な友情を描きたいと思ったのが発端で描き始めたものでした。
強さを求める人間同士、格闘家同士だけど、年もかなり違うし性格も全然違う二人。この二人の関係性を考えるにあたって、リョウは年齢も年齢だし、性格も職業も相まって、凱君のメンター的な立場でとっても生意気な凱君を見守ったりインスパイアしたりしてくれたら良いんじゃないかと考えて、イラストを3枚描き、そして、この小説で描いた、二人が凱の家で話し合うシーンと、凱君が家族に電話をするシーンをぼんやりと温めていたのでした。長くてセリフも多いので、一枚絵で描くのは難しく、けれど漫画で描くにしても男のひと二人が喋ってるだけのシーンなので私の技量で魅力的に描くのは難しく、結局テキストで形にすることになりましたが、完成させられて良かったです。半分諦めていたので。
イラストも根性で一枚付けられて良かったです。
タイトルの「麦星」はうしかい座の一等星アークトゥルスのことです。文中にちらっと出てきたので拾ってみました。
亮と凱君のお話、一段落ではありますが二度と書かないわけではなく、この二人は(BL的凱→→→亮でも食えるくらい)好きなので、何か思いついたらまた描きます。あとこのお話で全然出番がなかったキングさんもせっかく沖縄に来てもらったのでしっかり出番のあるものを書こうと思ってます。