魔物どもの体液は、必ずしも赤いとは限らない。その姿が人や獣から遠ざかれば遠ざかるほど、青や緑の体液をしているものが多い。けれども、爬虫類とも人類とも似つかぬ禍々しいモノと成り果てた、その化け物の血は赤かった。
まるで、かつて彼が人間だった証であるかのように。
バルザックのなきがらを見つめ、姉妹は立ち尽くしていた。
「マーニャ、ミネア」
ユージンが呼ばわる。
だが、ふたりは動かず、ただぶすぶすと煙を上げるバルザックから視線を外さない。
少年は彼女たちの傍らに立った。姉妹の琥珀色の瞳からは、幾筋もの涙が流れている。
「ユージン」 震える声でマーニャが云った。「もう少し待っていて。悪いね」
少年は頷く。
ユージンは一歩進んだ。そして、姉妹を抱きしめた。姉妹の激情がユージンにも伝わって、少年の瞳もうっすらと濡れた。ミネアの口から押し殺したような嗚咽が漏れ、それはサントハイム城の荒れ果てた大理石の壁にひそやかに反響した。
「泣くといい」
少年は姉妹を抱きしめたまま云う。
「僕たちはいつまでも待ってる。ふたりの気が済むまで」
◇
王宮に巣食っていた魔物どものむくろを全て城の前庭に集めるのは、並大抵の苦労ではなかった。だが、冒険者たちは黙々とそれをこなした。ずいぶん長い時間かかって、彼らが仕事をやり遂げたころには、すっかり日は暮れていた。
しかばねの山の周りに、サントハイムの神官が白墨で魔方陣を描いた。仲間たちが見守る中、神官は聖句を唱えながら魔物封じの紋章を丁寧に書き付けていく。やがて聖水が一面に振りまかれ、マーニャの炎がそれに火をつけた。
紫色の、自身が魔物のような不可思議な色合いの火炎が、めらめらとサントハイムの夜空に長い手を伸ばす。恐ろしいほどの音を立て、魔物たちのしかばねは燃えていく。クリフトは聖句を唱え続け、聖水をその火に投じ続けた。あやかしのものを寄せ付けない聖なる力が、炎の中ではじけた。
城の穢れをはらい、扉と云う扉、窓と云う窓、門と云う門、全てに厳重に封印を施し、魔物祓いの術式を終えると、もう夜中だった。
サランに今から行っても、宿も無ければ店も無かろう。冒険者たちは疲労してはいたが、宿屋は諦め、城が間近に見える平原に野営の幕を張った。
夜番はライアンとトルネコだった。今日は交代はしなくていい、と男たちは仲間に云った。姉妹も、姫も従者も、それぞれの理由で疲れて果てていたからだ。
焚き火を眺めながら、辺りに気を配りながら、お互いに軽く寝たり起きたりしながら、戦士と武器屋が長い夜を過ごしていると、馬車から人影がふたつ降りてきた。マーニャとミネアだった。
「眠れなくて」
姉妹は云い、外套にくるまって彼らの隣に腰掛けた。
「無理にでも寝たほうがいいんじゃないですか」
と、トルネコが優しく気遣う。
「大丈夫。眠くなったら、寝るから」
ミネアが答えた。
「ライアン、これを焚き火に入れてもいいかな」
マーニャが懐から出したものがある。薄汚れた銀の腕輪だった。
「いいが、いいのか」
ライアンが問う。
「うん、いいの」
マーニャは頷き、銀の腕輪を焚き火に放り込んだ。ミネアが続いて、いくつかの半貴石を投げ入れる。火勢が弱まってしまったので、トルネコが薪を足し、火を扇ぐと、すぐに炎は勢いを取り戻した。
彼らはずいぶん長いこと黙ったまま、焚き火を見つめていた。
姉妹は貴石の持つ力を信じていた。ミネアの水晶玉は勿論だったが、彼女たちが身につけるアクセサリー、額飾りや耳飾に嵌めこまれた金緑石や、翡翠にも意味が込められていた。
そんな姉妹が石を用いるのであれば、きっと何がしかの想いがそこにあるに違いなかった。だから、何を燃しているのか、男たちは敢えてふたりに問わなかった。
踊り娘の琥珀の瞳がふと仲間たちの輪をはずれ、どこでもない中空を見つめた。憂いのような、困惑のような、哀しみのような、そしてその全てであるような、複雑な色をたたえながら。
「バルザックをぶっ殺したことは後悔してない。でも、やっぱり虚しさは残る。父さんは帰ってこない」
マーニャは呟くように云い、続けた。
「ただただ、殺してやる殺してやるってそればっかり思ってた。でも、ミネアとずっと相談しているうちに少し変わってきた。うまく云えないけど、バルザックをぶっ殺して、それでバンザーイ、とは思えなくなってた」
ミネアも頷く。
「サントハイムのお城をあんな風にしてしまったのは、きっとバルザックだから。バルザックの妄執がこの世に漂っているうちは、きっとサントハイムによくないことが起こると思ったの」
「哀れなバルザック、魂は絶対地獄行きだけれども、地獄への片道切符くらい持たせてやろうと思った。今の腕輪は、あいつの汚い死体から取ってきたもの。一緒に燃した石は、橄欖石で、あたしたちの故郷では死者の魂を導いてくれるの」
「バルザックは、わたしたちの父の仇だけど、弟子だから。わたしたちにも、身内のようなものだから……アリーナたちへの罪滅ぼしのつもりで」
彼女たちはそこで言葉を切った。
姉妹の言葉に、年かさの男どもは静かに耳を傾けている。彼女たちの間に起こり、凝固し、瓦解した、憎しみの遍歴を共に分かち合うことで、彼女たちの心が安らぐならば喜んでそうしようと思い定めていたがため、彼らはいつにも況して無口であった。
焚き火の周りには沈黙が満ちた。
「身内」。その言葉に、姉妹が背負ってきた愛憎の重さが見える、そうライアンは思った。バルザックはきっと姉妹にとって、憎い仇というだけではなかったのだろう。幼い頃の温かい思い出と、惨劇は表裏一体なのだろう。
「憎しみだけでは、弔えまい」
ライアンが口を開く。
マーニャが首肯する。紫色の髪が揺れた。
「いやな思い出だけじゃない。いい思い出もある」
「父さんと、オーリンと云うもうひとりの弟子と、バルザックとで、よく研究室に篭りっきりになっていたわ。わたしたちがご飯を差し入れに行くと、父さんが研究室に招きいれてくれて、皆でご飯を食べたことがよくあったわ。そういう父さんとのいい思い出を、汚したくなかった」
姉妹の言葉を受けて、トルネコが云った。
「憎しみで頭がいっぱいになっている人は、自分の中の温かい心を黙殺してしまう。ましてや罪滅ぼしなんて。仇の男への憎しみよりも、ふたりのお父さんや皆への気持ちが勝ったんですね」
「そんな、ご大層なもんじゃないけど」
マーニャが気恥ずかしそうに笑った。いつも陽気な踊り娘の、今日初めての笑顔だった。
「いやいや、そうですよ、そうに決まってます」
トルネコも人懐こく笑う。ミネアの表情もいつの間にか綻んでいる。
「ユージンも、そうなれればよいが」
ライアンが云った。
大人たちは、翠の髪の少年を思い、またもや黙した。
「ユージンの剣は、まだまだ憎しみに曇っている。それは彼を苦しめるだけだ」
戦士は云う。
仲間たちはそれぞれに、口にはしないが、肯定の意を示した。
ユージンは、怜悧で穏やかな少年だ。仲間との交流が深まるにつれ、当初の野生の小鹿のような強い警戒心は失せ、よく笑うようになった。諧謔を飛ばすことさえあった。その少年が、時にとっくに死んでしまった魔物の骸に何回も剣を突き立て、普段は見逃すような小さな魔物にまで残酷な一刀を食らわせるのだ。そんな場面を仲間たちは、旅が長引くにつれ何回か目にすることになった。
憎悪に任せて魔物を屠るとき、少年はいつも泣いていた。獣が吼えるように。その姿はあまりにも悲愴であり、大人たちの胸を痛めた。
「復讐は何も生まない。解ってても、あたしたちはやり遂げなきゃいけなかった。そうしないと、自分がどうにかなりそうだったから。だから、ユージンの気持ちは解ると思った。あたしたちと会ったばかりの頃はもっと酷かったけど、ユージンにはそんな戦い方をするなとは云わなかった。そんなあたしたちには、ユージンに何も云う資格は無いかもしれない」
マーニャは云う。
「そんなことはないですよ」 トルネコは首を振る。「ユージンは苦しそうです。きっと彼だってあんなことしたくないんです」
「今日だって、取り乱して泣いている私たちを、慰めてくれたわ。あの子がいちばん、それを必要としているのに」
と、ミネアが云った。
「我々は、ただユージンのそばにいることしか出来ないんでしょうか」
「今のところは、そうなのかも」
マーニャが云う。
「でもあの子は、良くなったよ。最初なんて酷かったんだから」
「全然心を開いてくれなかったわね」
ミネアが首をかしげながら笑った。
「きっと大丈夫だ」
ライアンが頷く。
「マーニャの云うとおり、彼は変わった。いや、刻一刻と変わっていると云っても良いくらいだ。彼は大丈夫だ。おれは信じている」
戦士の言葉の力強さに、皆は安堵を覚えた。
踊り娘が、くすっと笑った。
「ライアン、ユージンのお父さんみたい」
「……彼が産まれたとき、おれは23歳だ。確かに、息子のようなものかもしれんな」
ライアンは苦笑こそしたものの、特に否定するでも無く、そう答える。
また、沈黙が下りた。サントハイム城が静かに聳え、その遠景には遠くサントハイムの大陸を縦断する山脈が黒々と横たわっている。異国の空は天蓋のように低く迫り、それを彩る星辰だけが何処の国に在っても変わらなかった。
満月の傾きが朝の近さを示している。
「もう夜明けね」
「結局寝そびれちゃった」
「無理は禁物ですよ。もう馬車に戻ったほうがいい」
「ううん」 踊り娘は首を横に振る。「ここまで来ちゃったら、起きてる方がいいわ。明日はサランに一日いる予定でしょ。昼寝でもするわ」
そう云った彼女の顔が、先ほどよりもくっきりと見え出した。空が白んでいる。一日が、再び始まろうとしている。
夜明けが訪れるたび、世界は生まれ変わる。新しい日の光を浴びて、彼らもまた。
勿論、魔物らの断末魔も返り血も、憎しみも哀しみも、完全に拭い去ることは出来ない。それでも朝日は彼らに力を授ける。立ち上がり、前に進む力を。
空が赤く燃える。山の端が白み、きらめき、太陽が姿を現す。
彼らは息を潜め、雄大な日の出をそっと見守った。希望という美しい言葉が、彼らの胸に強く宿っていた。
2008-09年ごろ個人サイトで初出、2021年にpixivに掲載。
5章のサントハイムのイベント後のお話です。クリアリ小説シリーズの「Garnet」と対になっています。
以下は当時の更新報告ブログから。
—
今回はクリアリはいったんお休みです。
「あとがき」にも書きましたが、お話の最初の段落(◆で区切ってある部分まで)が頭に浮かんできたので、それを書いてたらおまけもくっついてきました。
バルザックのイベントはマーニャとミネアのイベントですが、舞台はサントハイムです。姉妹がそれに対して何も思わなかったことはないだろうし、サントハイムのみなが何も思わないはずもないし。
とか、色々くっつけたら、こんなんなりました。結局勇者かい、みたいな。
よろしければ、お読みくださいませ。