ドロドロとした、不定形の、ゼリーのようなものに包まれている。それは生ぬるく、薔薇のような香りがする。口を開くと、口腔に入り込んでくる。ホイップクリームのような食感、そしてひどく甘い。
少年の肌を、それは優しく愛撫する。関節が痛むほど伸び続ける身長と、それを促す生気が彼の肌ににきびを作っている。腕も脛も、まだつるつるとしてまるで子供だ。色白の、すべらかな肌に、不定形のそれはすっかりと張り付いて、撫で、さする。くすぐったい、と少年が身をよじっても、それは許してくれない。
少年は気づく。不定形のそれが、いつの間にか人間の形を取っていることに。柔らかなもち肌、か細い鎖骨、しなやかな手足、そして乳房。薄桃色の唇が微笑んで、少年がもてあます体の器官に口付ける。やめて、と少年は云う。しかし彼女は、それをやめない。少年がいつもいつも、もてあますその器官が、彼女の愛撫に応えて少年の手綱から逃れようとする。
いやだ、やめて、と少年は云うが、彼女は笑って首を横に振る。鳶色の瞳が自分を見ている。亜麻色の巻き毛が、少年の脚をくすぐる。その顔は、いつも間近で見つめるあのひとのものだった。
柔らかな日差しがカーテン越しに少年の寝台の上に降り注いでいた。いつもと変わらぬ朝だった。少年の目はかっきりと開く。頭上の時計を見ると、毎朝の起床の時間より、幾ばくか早い。二度寝をするには時間が足りなかったので、起き上がった。
部屋から続くバスルームで冷水のシャワーを浴びる。半覚醒の意識がすっきりとした。
王立高等学院の制服に着替え、学習机の傍らの竜神のレリーフに向かって祈りを捧げる。
(神様、お許しください。僕はまた、罪を犯してしまいました)
固く目を閉じる。羞恥心と罪悪感が一気に噴出して、少年は深く頭を垂れた。
◇
王宮の午後はいつものように、さざなみのように人々の声や足音が、大理石の壁に反響している。
近衛兵や執政官が行きかう中を、少年は足早に王宮の奥へと進んだ。
やがて少年は、重々しい瑠璃色の鉄扉の前にたどり着く。扉の両隣の儀杖兵が、クリフトを見とめて声をかけた。
「許可証を」
云いつけられ、いつものように鞄から羊皮紙で出来た通行許可証を差し出す。儀杖兵はそれに目を通すと、扉を開いてくれた。会釈して、すり抜ける。重々しい音を立て、背後で鉄扉が閉まった。
ここから先は、王の私的な空間だ。
足元の濃紺の絨毯を踏みしめながら歩く。瑠璃紺、鬱金。アクセントの緋色。二つの尾持つ獅子の紋章。鈴蘭のレリーフ。サントハイム王家の標章物がありとあらゆる調度を彩る。
長い回廊を抜け、アリーナ姫の住まう別棟の入り口にやっとたどり着く。衛兵に許可証を示し、姫に目通りを請う。
顔なじみの衛兵が、守衛室に招いてくれ、コーヒーを出してくれた。
コーヒーが冷めてしまうくらいたっぷりとした時間、待たされる。
毎日のこととは云え、大げさだ、といつも思う。
「3階のテラスにてお目通りあそばすとのことです」
これもまた、顔なじみの女官が来て告げていく。クリフトは礼を云って、守衛室を辞した。
天窓からさんさんと陽光の降り注ぐ階段を上り、テラスに至ると、そこに設えられたテーブルには茶器と茶菓子が並んでおり、少年の主君であるところのアリーナが、カップから紅茶を飲んでいる最中だった。
「姫さま、クリフトです」
「いらっしゃい。遅かったのね」
アリーナは小首をかしげ、笑った。綿の白い上衣に鶸色の細袴と云う出で立ちから察するに、今日も武芸の稽古に勤しんでいたようだ。
その笑顔に、今朝見た生々しい夢の面影が重なって、クリフトはひどい羞恥を覚えた。うつむき加減になったまま、アリーナが勧めてくれた椅子に腰掛ける。
「今日は少し、居残って勉強をしていたので」
「クリフトは勉強が好きね」
アリーナは再び笑った。
最近、アリーナの体は縦に成長するのを止めてしまった。サントハイムの女性の平均からすると、やや小柄だ。その代わり、体つきが少し変わってきた。こどもこどもした、直線的なシルエットが、いつの間にかなめらかな曲線で構成されるようになった。アリーナが13歳になってから、半年以上が経とうとしていた。
それに対して15歳になったクリフトだが、一向に身長は伸びるのを止めない。高等学院の制服は3回も丈を直したが、それでも追いつかず、とうとう新しい制服を最高学年になってから誂えることになった。可愛らしいボーイソプラノの声も、あっと云う間に大人の男のそれに取って代わられてしまった。
二人とも、日に日に体が生まれ変わっていくかのような、著しい変化の只中の年頃だった。
この二人の交流に眉をひそめる手合いが王宮の中にも少なからず、いた。大陸の王族貴族の女子であれば、15歳を過ぎたら婚姻の話が持ち上がるのは至極当然のことだ。アリーナもそろそろ、将来の王配殿下の目星を各国に当たりださねばならない。そんな王女に、同じ年頃の少年が従者としてつくのは決してよろしくない。
王や側近の老人方に、そのように進言をする者も、勿論いた。真剣に王と王女のことを思っての者もいたし、クリフトの父、ヨアキムの出世を妬んだがための者もあった。
だが、どんな背景が進言者にあったにせよ、王と王女自身はクリフトの登城を望んでいた。
また、老獪で知られるブライ老でさえ、
「あれはまだ子供じゃ。しかもとびきり臆病者のな」
と公言して憚らず、クリフトは身近な人々からの擁護、と云う甚だ心もとない力添えで、アリーナのそば仕えの職を罷免されずに済んでいたのだった。
ただ。
本当に子供の頃ならばよかった。クリフトにとっても姫は正真正銘の友達だった。庭園の小川でびしょびしょになるまで遊んだあと、二人一緒に風呂に突っ込まれたこともある。取っ組み合いの喧嘩になって、お互い引っかき瑕を作ったこともある。癇癪を起こして大泣きするアリーナを抱っこして、ずっとあやしたこともある。
だが、今それをやれ、と云われても、無理だ。
クリフトにはそれだけの社会性が身についてしまった。まず身分が違う。取っ組み合って引っかき合うなど、ありえない。涙流す姫を宥めるのは、女官の役目だ。きっと少年は、従者としての振舞いを、全ての優先に置くだろう。
次に、アリーナは女性だった。いくら男勝りのおてんばだとしても、隠しようもなく。そして彼女は本当に愛らしい少女だった。クリフトが勉学に忙殺されて、中々アリーナに目通りが適わなくなり、久しぶりに時間が出来て再会するたびに、彼女は階段を上るように着々と美しく成長していた。
その姿が、少年にとってはまぶしかった。昔のように気安く接することなど、出来やしないくらい。思わず、怖気づいてしまうくらいに。
「クリフト、何ぼうっとしてるの?」
自らお茶菓子をとりわけながら、アリーナはクリフトを覗き込んだ。
彼女の白い上衣から、華奢な鎖骨と白い二の腕がまろび出ている。最近になって急にふくらみが増した胸の曲線が、彼女の発する言葉や吐息に合わせて上下する。綿で出来た上衣は年頃の娘の体を覆うにはあまりに頼りなく、下着の線がうっすらと浮かんでいた。少年は目のやり場に困った。
「あ、いやあの」
「ヘンなクリフト。最近ずっとぼうっとしてる」
アリーナが云った。
クリフトは耳まで赤くなった。自分の放心を見抜かれていた。もしかしたら、自分の邪な心まで見抜かれているかもしれない……。少年は必死で言い訳を探した。
「最近、神官になる試験の勉強をしているので……あまり、寝ていなくて」
これは嘘ではない。
マスタードラゴンの教えを遂行すべく神職にあるものは、すべからく神官と呼ばれる。その末席に座する助祭と云う資格が、聖職者の最初の階段である。クリフトは助祭の資格を得るため、高等学院の卒業試験の勉強と平行して、神官の試験勉強もしていた。アリーナへの拝謁が最近滞り勝ちなのは、これの所為でもあった。
「クリフトは神官さまになるって、ずっと云っていたものね」
「はい」
「お父さまは、“勿体無い”って云ってたわよ。クリフトくらい秀才なら、執政官になって、サントハイムのために働いて欲しいって」
確かに国王直々に、その言葉を云われたこともある。勿体無いくらいの言葉だが、クリフトは辞した。
「ありがたいお言葉ですが、わたくしはやはり、神の教えを全うしたく思います」
「うん。頑張ってね!」
アリーナが笑った。花が綻ぶような、可憐な笑顔だった。クリフトの鼓動がまた、高鳴る。
「あ、ありがとうございます」
「ところでクリフト、今日は何をして遊ぶ?」
「チェスはいかがでしょう」
「チェス?」 アリーナは露骨に不興そうな顔をした。「クリフトが強すぎてつまらないわ。ね、遠乗りに行こうよ!」
「遠乗りですか? ですが城外に出るには、陛下のお許しが」
「大丈夫! お父さまと、“クリフトが次に来たら、遠乗りに行っていい”って約束してるの! ね、行きましょ! 決まり!」
云うが早いが、アリーナは立ち上がり、クリフトの手を取った。クリフトの心臓が喉もとまで跳ね上がる。姫は楽しそうに少年の手を引き、そば仕えの女官に言いつけて、馬を引く準備をさせた。
「わたし、着替えて来る! クリフトは制服のままでいいわよね!」
云うが早いが、アリーナは私室の扉の奥に姿を消した。クリフトはその場に取り残される。アリーナの手のぬくもりが、まだてのひらに残っている。だがそれよりも頬が熱い。少年はただうろたえて、顔の火照りが冷めるのを待った。
神の教えは云う。
人をあやめてはいけない。人のものをうばってはいけない。
日に三度の祈りを欠かさず、神の恵みに感謝して食事をしなければならない。
みだらなことをしてはいけない。
だから少年は、そのように振舞ってきた。マスタードラゴンはいつも見ている、我らのそばにある。だからこそ、神の徒の名に恥じぬ行いを、せねばならぬ。
だが、少年の体に巣食う蛇がそれを阻む。蛇は毎夜毎夜、うつつに、夢に、彼の心と体を弄ぶ。
どれだけ勉強をしても、どれだけ剣の稽古をしても、それらで頭をいっぱいにし、体を疲労困憊させても、蛇は悠然と現れ、少年を罪深い行いへと引きずり込んでいく。
読書家の彼にはわかっていた。その行いが彼のような年頃の少年にとっては、不可避なことを。日に日に伸びる背丈、掠れて低くなった声、それらの現象と同じくらい、自然であることを。しかし、それでも彼は自分を蔑んだ。みだらな妄想の中に、時折かの人の面影が去来することが、許せなかった。可愛らしく、清らかな、あの人を、己の欲望で穢す、その暗澹たる悦び。うつつのあの人には、指一本触れられないのに。少年は、己の弱さを心から憎んだ。
Thou shalt not commit adultery.
(神様、お許しいただけますか。こんなぼくを)
少年は祈った。レリーフの中のマスタードラゴンは、微動だにしない。
◇
父の書斎はいつも静寂に満ちている。何千冊とも知れぬ蔵書が、書架から一斉に少年を見下ろしていた。
書斎机をはさんで、父と子は向かい合っている。
「勉強の調子はどうだ? 何か困っていることは無いか」
父と息子が、出来る限り持つようにしている、二人だけの会話の時間であった。
「はい、勉強は問題ありません」
クリフトは応える。
「おそば仕えはどうだね? 姫さまはご健勝か? 最近お会いしていないが」
「あ、はい。本日もお目通りして参りました。相変わらず、お元気でいらっしゃいます」
「前のように、こてんぱんにやられてはいないか」
父の目もとに笑みが浮かぶ。
「姫さまはもう、ぼくなどお相手にされません。今は近衛兵の中隊長から1本取るのが目標だとおっしゃられてます」
「痛快なことだ」
父は今度は、声を上げて笑った。
妻が乳母を務め、息子がそば仕えを勤めるアリーナのおてんばぶりを、ヨアキムもよく知っている。女だてらに、と眉をひそめる向きとは違い、彼は姫のそんな気性を好ましく思っているらしい。
「そなたが勉学の成果あって学院を卒業し、助祭に任じられれば、姫さまのおそば仕えも卒業だな」
「はい」
「そなたを母が姫さまのおそばにお連れして、もう10年になるか」
「はい」
「寂しいだろう」
父の問いかけに、クリフトは曖昧な笑みを浮かべた。
「恐れ多いことですが、友人のようにお仕えしてまいりました。寂しくないと云えば嘘になりますね」
「そうだろう」
「でも──」
クリフトは云いかけて、口を閉じ、首を振った。「何でもありません」
ヨアキムは口ひげを撫でる。
「なんだ? 気になるな」
「いえ、何でもありません」
クリフトは改めてそう云い、もって来た神学書の教本を書斎机の上に置いた。
「父さん、それよりも、教えていただきたい箇所があるのです」
「おお、何処だ?」
父は身を乗り出す。クリフトの繊細な手が、教本の頁をめくった。
「でも、ほっとしています」。少年はそう父に云いかけたのだ。
心臓の鼓動が、外に聞こえはしないか。
火照った頬が、火を噴きはしないか。
そんな心配を抑えることが出来ない。
聡明な少年は気づいている。
自分の気持ちが、忠義や友誼をとっくの昔に飛び越えてしまったことを。
文豪のしたためた小説。詩人の遺した詩。人はたれも、その心を、狂気を、文学に、音楽に、行動に、顕さずにはいられない。
少年はもはや、頭では理解している。自分の気持ちを示す名を。それが太古から人間の営みに根付いたものであることを。それなくしては、人は生きていけないことを、少年は理解している。その意味では、罪ではない、そのことを少年は知っている。
だが、彼は知っている。彼の恋に限っては、門外不出なものであることを。
(神さま、ぼくは何も望みません。ただ、ただ、己を律したい)
(ぼくをお許しください。ぼくの罪を)
少年は無心に祈る。
神のイコンはただ無言である。
可愛い、清らかなひと。自分を無邪気に信頼するかの人。
少年はそっと、自分の心の中に、鍵をかけた。
個人サイトから移管したクリアリドラクエ4小説です。2008年ごろ初出、2021年5月にpixivに投稿。
少年時代の二人。以下はサイト更新報告のブログから。
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クリフトの学生生活も絡めて書くつもりだったのですが、オリジナル色が強くなりすぎるので止めました。ま、今の時点で捏造もいいとこなんですけどね・・・・・
性少年でヘタレなクリフトで本当にすみません。「こんなのクリフトじゃない!」というお叱りの言葉が聞こえてくるようです。おっしゃるとおりです。本当に申し訳ございません。でも歳相応に書こうと思ったらこうなっちゃったYO・・・。
しかし、クリフトと言うのは難しい人であります。
すぐカッコイイ人になっちゃうのであります。
年齢とか踏まえつつ、「分別あるしお利口さんだけど、歳相応の」青年像を作り上げるのが難しいです。聖職者の人なんて知り合いにいないし。