ひとたび城に入れば、サントハイム王家の至尊の色、瑠璃紺があちらこちらを彩り、時折配置される緋色と陰影を交わらせて人々の心に強い印象を残す。二尾持つ獅子や鈴蘭のレリーフが金箔を刷かれて、釘隠しや窓の桟、照明や扉をさりげなく飾る。高い天井には宮廷画家が技巧を凝らしたフレスコ画が延々と続き、シャンデリアが夢のような輝きを纏っている。
城の前庭は春ともなればチューリップや水仙が咲き乱れ、亡き王妃の愛したヒヤシンスが儚げな影を小池に落とした。歩哨たちの瑠璃紺の鎧が花園の中で、それすらも予め配置されたものであるかのように整った印象を庭園に与えていた。
その前庭に、彼は──クリフトは今、一心不乱に魔方陣を描いている。
白墨が足りるか。聖句を諳んじながら、不思議とそんなことが気になっていた。彼と彼の仲間が屠った魔物の数はゆうに50を越え、屍の山は堆く、裾野は広かった。大理石の床を削る白墨が段々ちびて来るのを眺めながら、クリフトは己の荷物の中に換えの白墨を持たなかった失策を悔いていた。
白鷺の翼は千切られ、巣は汚された。
前庭に積み上げられた魔物たちの骸を見たときに、クリフトはそんなことを思った。その眺めにはまるで現実味が無く、玉座に腰掛けた魔物を見たときには悪い冗談だろうと云いたくなったくらいだ。
まるでたわけた悪夢を見ている気分だった。全てが何処かの街でたわむれに眺めた小芝居じみていた。ただ、白墨の残りを心配している自分の心持だけが、己の正気を示してくれているようで、クリフトは唇の端に聖句を乗せながらそれだけを案じた。
神よ、クリフトはそう呼びかけた。
クリフトの信じる神は、彼の故郷が奪われ、仲間の少年の故郷が燃やし尽くされるのをただ見ていた。直接手を下したのは魔物たちであったが、クリフトの信じる教えに従うなら、それもまた神の掌の上の出来事であるはずだった。なぜなら神は全知のものであるはずだったから。
神は無慈悲で、残酷だった。矛盾に満ちていた。天災も苦難も病苦も、神の齎したものだった。神が、彼を奉ずる無力な子らに、与えたものだった。
それでも、クリフトは神に呼びかけずにはいられない。彼にはそうすることしか出来ぬ。彼の祈りに応え、神が癒しや護りの力を与えてくれるたびに、クリフトは神の眼差しを感じる。そして今、この喜劇のような悲劇の場面でも、クリフトは神に力を借りようとしていた。彼にはそうすることしか出来ないから。ただ、信じることをしか、出来ないから。
白き翼の慈悲ぶかき竜神の御名を称え、この地をご覧あれと祈る。
魔方陣に聖水を振りまき、香油を振り掛ける。クリフトは目を閉じる。
魔物たちの骸に火がかけられた。火の手は空を嘗めるように高く上がり、肉の焦げる生々しい臭いをあたりに撒き散らした。神官は紫色の炎に炙られながらひたすらに聖句を唱える。封じ、祓い、祈る。 乞い、願い、祈る。
信じて、祈る。聖句の言葉が熱を帯び、彼の体中にびっしりと汗の玉が吹き出る。クリフトの霊魂が祈ることだけに邁進する。肉体が霊魂の飛躍に置いていかれそうになって、ところどころで悲鳴をあげた。こめかみがきりきりと痛み、体中の関節がきしんだ。
身体の疲労に精神が乱される。聖句を唱える舌がもつれそうになり、肉体が平衡感覚を失いそうになった。青年は強く目を閉じ、脳髄に穴が開きそうになるほど祈った。研ぎ澄まされた精神が、くずおれそうな肉体を辛うじて支えてくれた。
細胞が彼の魂に共振して熱を上げる。六感は冴え渡り、目を閉じているのに周りのことが手に取るように解った。魔物たちのなきがらは無残に燃えている。その肉は聖水で清められている。魔方陣が地面を浄化し、炎が煙を聖別する。禍々しい気配は失せ始めていた。
クリフトが我に返るまでに、いましばらくの時間が必要だった。
視界にはぼんやりと霞がかり、四肢には未だ澱のように疲労が沈殿していた。窓から陽光に目が馴れ、見覚えの無い天井が輪郭を取り戻していくにつれ、彼の意識も明瞭になってきた。
今はいつで、ここは何処で、自分は何者で。
そんな断層を少しずつ埋めていく。その過程で、はたと思い当たるものがあった。
「うわっ!」
クリフトはそんな奇声を発して寝台から起き上がった。全身の筋肉が一斉に、その乱暴な動きに対して罵声を浴びせた。痛みに耐えかねてうめき声をあげ、しばし蹲る。
「まずい……」
うめきつつも、クリフトは必死で息を整え、寝台から立ち上がろうとした。
高熱の後のようなだるさと、空腹から来る腰の据わらなさが、彼の身体をよろけさせる。
昨晩、全てのことを終えたときには、既に夜半を回っていた。仲間たちも皆、疲労困憊していたが、野宿せざるを得なかった。
クリフトは消耗しきっていて、土の上でも石の上でも良いから寝かせてくれ、と云った気分であった。事実馬車の板間で外套を被ったなり、あっという間に寝てしまった。
次に目を覚ましたときは早朝で、馬車はサランの街に到着していた。ブライにたたき起こされ、何とか起き上がって宿に移動することが出来た。本当は、馬車の中のままでいいから寝かせてもらいたかったのだが。
相部屋になったブライが云ったのだ。
「今日は骨休めじゃ。わしと姫さまは、ユージンと共にかつて城で陛下にお仕えしておったご老人に会いに行く。城で見つけた杖の下調べもせねばならぬしな。そなたは寝ておれ」
クリフトは、頑固に首を振った。
「いえ、皆さまお疲れの中、そのように動いていらっしゃるのに、わたくしだけ寝ぼけているわけには参りません。わたくしもご一緒いたします」
老師は肩をそびやかした。
「無理するな。またパデキアの根っこを煎じて飲む羽目になるぞ」
その脅し文句は、かつての病魔が自らに齎した苦痛の日々を思い出させ、彼の意欲を萎えさせるのには効果覿面であった。しかしながら、やはり自分だけ寝ているのは気が引けた。クリフトは少し休んでから起きるつもりでいたのだが、すっかり寝過ごしてしまったと云うわけだった。
日光の具合から察するにもう正午は過ぎているであろう。疲労の極みにあったとは云え、いぎたなく寝坊してしまった己のふやけた肉体を呪いながら、クリフトは寝間着を脱ぎ捨てた。
そのとき、部屋の扉が不用意に開かれた。
「クリフト──」
涼やかな声の主を見やる。赤銅色の巻き毛が揺れる。
アリーナであった。
「あっ、ごめん!」
下穿き一枚の軽装だったクリフトを見るなり、アリーナはバタン! と扉を閉める。
しばらくしてから、扉が遠慮がちにノックされた。
「……入って大丈夫?」
「どうぞ」
何とか身なりを整えたクリフトが答えると、アリーナがひらりと部屋の中に入ってきた。後ろ手に扉を閉め、部屋に設えられた椅子に腰掛ける。旅装に手ぶらの軽装であった。
「ごめんね、まだ寝てると思ったから」
アリーナが詫びる。
「いえ」
よく見知った仲とは云え、妙齢のご婦人に裸同然の姿を見られてしまったことに今更ながら羞恥を覚え、クリフトは少し頬を染めた。しかしながら、照れている場合ではないと思い直し、アリーナに頭を下げた。
「申し訳ございません。ご同道できず」
「え?」
姫はきょとんと目を瞬かせたが、次いで首を振った。
「やだ、そんなの。全然気にしてないわ。来て貰ったら逆に心配だったもの」
「しかし、皆さまもお疲れなのに」
「気にしないでよ。ちゃんと起きたの、わたしとじいとユージンだけだったもの。ライアンとトルネコは夜番だったからしょうがないけど、マーニャとミネアもまだ起きてこないわ」
「いや、しかし……」
「いいの!」
アリーナはクリフトの抗弁を遮って、彼を見据えた。
姫に見つめられ、クリフトは言葉を飲み込む。
左右対称の、整ったアリーナの顔。
青年が独り占めにしたいと願い、諦め、それでも求めてしまう。愛らしい、アリーナと云う魂のうつわ。
姫は口を開いた。少し厳かに。
「あなたは昨日とっても頑張ったんだから、無理しちゃ駄目なの。だからいいの」
アリーナの声音は滋味に満ちていた。クリフトは、既視感を覚えた。まるで幼い頃に、母が褒めてくれた時のような、誇らしい、けれども少しくすぐったい、そんな気持ちが胸に満ちる。
クリフトは大人しく引き下がった。
「……すみません」
「もう。また謝る」
「も、申し訳ございません」
「ほらまた。クリフトったら謝ってばっかり」
「……」
クリフトは苦笑した。それ以上、言葉を重ねるのをやめた。
「無理しないで。ミントスのときみたいなのは、もういやよ」
懇願を込めて、姫は云った。口調以上に真剣な願いがひそやかに彼にまとわりついて来るようだった。
「姫さま……」
「あんな悲しい思い、もうしたくないの」
姫の瞳の色が翳った。
「はい」
クリフトは頷く。
ただ愚直に。
もし自分が自分でなく、たとえば村の若者で、アリーナがアリーナでなく、ただの村娘だったら。彼はそんなことを思った。きっとクリフトは、そっとアリーナの肩に手を回し、抱き寄せるだろう。そして云うだろう。何処にも行かない、案ずるなと。たとえ、娘が若者に恋していなかったとしても、そうやって甘い言葉を囁いて、彼女の心に矢を射掛けることがいくらでも出来ただろう。
だが自分は自分で、アリーナはアリーナだった。
だから、ただ礼節をもって、こう答える。
「姫さまのお言葉、ただただ有り難く存じます。無理はせぬよう努めます」
「うん」
彼女は恭しい言葉遣いを当たり前のように受け止める。それがクリフトが築いた壁であると知らず。それに神官は少し安堵する。
アリーナが問う。
「ねえ、まだへとへと? 動けないくらい?」
「いえ、そんなことは無いですが」
「おなかは空かない?」
「……空きました、とても」
「なら、ご飯を食べに行きましょ! わたしもおなか空いちゃった」
「そうですね、是非」
「いつもよく行った食堂に行かない?」
アリーナは立ち上がる。クリフトも「はい」、と答えてあとに続いた。
その食堂は、彼女が懇意にしていた武器工房の親方から教わったところだった。海から陸揚げされたばかりの魚介と、産地直送のオリーブとをふんだんに使った料理がめっぽう美味しい。ただ、まさに大衆食堂と云った趣の店だったため、公式に行啓するときには勿論訪れることは出来ない。もっぱらお忍びでクリフトと立ち寄る、彼女の秘密の店であった。
宿の廊下を渡り、階段を下り、ホールを抜ける。日当たりのいい玄関から外に出ると、アリーナはのびやかに歩き出した。クリフトは小走りに追いつく。
「姫さま、他のかたがたは?」
「皆寝てるって、さっき云ったじゃない」
「ユージンとブライさまは?」
「知らないわ」
アリーナは首を振り、言葉を続けた。
「だって、あのお店はわたしたちの秘密の場所でしょ。だから、2人で行くの」
彼女はあまりにもあっさりと云う。
クリフトが苦労して築いた壁を、何の苦も無く取り払う。
その華奢な、けれども無限に広がるかのような懐に、飛び込んでいいのでしょうか? クリフトの胸中でそんな疑問があわ立つ。
「……姫さま」
衝動的に、言葉が唇からこぼれた。
アリーナが振り返る。柘榴石の瞳が、クリフトの視線と交わる。
「なあに? クリフト」
小鳥のような甘い声が、彼の名を呼ぶ。
青年はしばし逡巡した。
やがて、云う。
「わたくしは、意外と頑丈なんです」
アリーナは不意をつかれたような顔をしていたが、快活に云った。
「なに、いきなり」
「ですから、もうミントスのようにはなりません。ずっと姫さまにお供しなくてはいけませんから」
「お供? 見張りの間違いじゃない?」
アリーナがまぜっかえす。クリフトは首を振った。
「いいえ、お供です。どこまでも」
「どこまでも?」
「ええ、どこまででも」
往来の真ん中で2人は向き合い、見詰め合った。子どもたちが彼らの脇を、騒ぎながら駆けていく。砂埃が2人の足元を汚した。
「──お願いね」
アリーナが笑う。花が綻ぶように。
その笑みだけが自分に高揚を齎す。
柘榴石のような、紅玉のような。けれどもそのどれでもない、しんとした、知性のおおもとの塊のようなひらめき。
神は残酷で矛盾に満ちている。けれども信じる、ただ信じ、祈る。
自分には、それしか出来ないから。
相見えたことも無い神のことは信じられるのに、目の前のあなたのことを信じきれない。
この弱さを、どうか。
──お許しください。
2008-09年個人サイトで公開、2021年5月にpixivに掲載。