Red-Headed Girl

中天に向かって太陽が一段一段きざはしを上って行く。それにつれて気温は上がり、初夏の心地よい日差しが王宮の窓と云う窓から降り注いだ。図形化された百合を刻んだ窓の桟を通り過ぎた日光が、アリーナの目の前の机にくっきりとした陰影を落とす。王女の目の前に高く詰まれたテキストと云うテキストのページを、日光に遅れて入り込んできた風がいたずらに揺らした。
まこと、うららかな日であった。出窓のふちでは、白猫が午睡と云うには早すぎる転寝をむさぼっている。アリーナはその光景を心から羨ましく眺めた。
こんな日は、愛馬に乗って遠乗りに出かけたい。街道をわたり行く風に心をゆだね、太陽の恵みを一身に受け、野の獣を追い、草原を思うさま駆け回りたい。赤銅色の巻き毛をもてあそびながら、アリーナは思う。
だが、現実は全く別である。彼女の目の前にはテキストがこれでもかと詰まれ、その奥ではもう見飽きるくらい顔をつき合わせている老人が彼女に勉学を強いていた。目下のテキストは「サントハイム列王記」の第15巻で、1巻が数百ページにも及ぶ長大なサントハイム国王たちの事跡はようやくアリーナの曽祖父のところまで来たところだ。
ブライは彼女に、彼女の曽祖父の事跡について淡々と講釈を加えていた。現国王、マウリッツの祖父にあたるシーギスムンドⅢ世の治世における主な功績。それがサントハイムに齎した安寧と富について。しかしながら、それがサントハイムに与えた歓迎せざるものについて。そしてそれを、シーギスムンドⅢ世がいかように修正し、洗練させていったかについて……。
実のところブライの授業は、彼の王家への愛着がふんだんに盛り込まれており、それがゆえにどちらかと云えば脱線しやすく、生徒にはあまり親切なものではなかった。アリーナのように不熱心な生徒にとっては、特に。
窓際の猫が目を覚まし、大あくびとともに身体を伸ばす。思わずアリーナも、それに誘われてあくびをしてしまった。
目ざとい白髯の老魔法使いがそれを見逃すはずは無かった。
「姫さま」
ブライの黒い瞳が、長い眉の奥から姫を射る。
「は、はい」
アリーナは思わず背筋を伸ばした。
ブライはそのまま、テキストに視線を戻す。
「……斯様にしてシーギスムンドⅢ世陛下は、バトランド及びスタンシアラとの北海沿岸同盟を締結させ、北方の海洋の安全を確保するのと平行して、陸軍力に勝りながらも鉄鋼資源に恵まれぬバトランドに対して武器の輸出量を飛躍的に増大させることに成功したのでございます」
“斯様にして”が、いったいどのようにしてなのか、姫の頭は覚えていなかった。
質問しようか逡巡していた間に、ブライは軽く息をつき、テキストを閉じた。
「本日はこれまでと致しましょう」
「えっ」
「そろそろ正午になりまする。じいめの授業は午前中で終わりですからな」
もうそんな時間だったのか、と姫は内心で驚いた。自分で思っていたよりは集中して話を聞いていたらしく、時間の過ぎ去るのがいつもより早く感じられた。
「それとも、御不足ですかな? 姫さま」
ブライがアリーナを見て、にやりと笑う。
「いいえ、そんなこと無いわ」
アリーナはあわてて首を横に振った。
「姫さま、お食事のご用意が出来ましてございます」
そばに控えていた女官がアリーナに云う。
週3回の授業のあとは、アリーナとブライは昼食を共にとる。本来ならばアリーナひとりで食事は済まさなくてはならないが、彼女がそれを嫌がったため、半ば公然の習慣となっていた。
アリーナの住まう棟には広いテラスがあり、姫はここで食事をしたりお茶をしたりすることが大好きだった。天気の良い日はテラスで食事を摂るのもまた、彼女の習慣であった。
女官はかしこまりました、と請合って下がった。
アリーナとブライは席を立ってテラスに移動する。大理石のテーブルと椅子がしつらえられ、テーブルには鮮やかな瑠璃紺のクロスが掛けられていた。
質実な国柄ゆえか、残念ながら美食の国とは云えぬサントハイムではあったが、沿海で獲れる魚料理はアリーナの好物である。じゃがいもと魚、塩とオリーブオイルがあれば彼女は特に文句は云わぬ。今日はニシンの酢漬けと豆のスープがオードブルとして供された。それに、ジャガイモとアンチョビのオーブン焼き、牛肉の肉団子が湯気を立てながらふたりの前に並べられた。どれも香ばしいオリーブオイルの香りが満ちている。
姫と魔法使いは向かい合ってランチを摂りはじめる。天気も相俟って、普段より美味しく感じられた。
「じい、今日はこれからどうするの?」
「本日は御役御免でございまする。家に戻って葡萄酒ワインでもいただこうかと思っております」
ブライは答える。老人は最近、城に滞在する時間が減ったような気がする、とアリーナは不図思った。それが何ゆえなのかは解らないが、彼の老いを象徴しているような気持ちになり、アリーナはすこしさびしくなった。
「最近、あんまりお城にいないのね」
姫は呟くように云う。
「あまり年寄りをこき使うものではないですぞ」
ブライは云いながら、ニシンの酢漬けを骨ごと噛み砕いた。年寄りとも思えぬ大味な咀嚼に、アリーナは少しだけ安心する。けれども、それをそのまま口にするのも気恥ずかしかったので、呆れたような口調で云ってやった。
「じいは自分の都合のいいときだけ、自分を年寄りって云うんだから」
「これはまた手厳しい」
老人は目を細めた。
「姫さまは、本日のご予定は?」
「遠乗り……と云いたいところだけど、お勉強よ。今日はケイザイガクだって」
「結構なことでございます」
酢とオリーブオイルの混ざったマリネ液にパンをひたしながら、ブライは云う。不図思い当たったように、魔法使いの手が止まった。
「……そう云えば姫さま、最近の城内のもっぱらの噂をご存知ですかな」
「なあに、突然」
「午後から参上いたす教師に、縁談が舞い込んだそうで」
「クリフトに?」
姫の声が心もち高くなった。
クリフトの縁談の噂は、今までも何回か聞いたことがあった。旅に出る前も、戻ってきた後も。だが神官は未だ身を固める気配無く、いずれ噂は立ち消えになっていた。
「今までも何回かあったけど、ただの噂だったじゃない。今度のだって、きっとそうだわ」
姫は云う。しかし、老人は愉しそうに言葉を返した。
「それが、今回はお相手がお相手。アクセルソン伯爵のご令嬢とのご縁談だそうですぞ」
アリーナはよく見知るアクセルソン伯爵の顔を思い出した。生粋のサントハイム人らしい、長身で細身で、鑿で削ったような顔をしている。銀髪に近い金髪はだいぶ薄くなってはいるが、怜悧な湖のような青い瞳をしていて、少しも威厳は損なわれていない。その当の娘本人とも、アリーナは面識があった。夜会で幾度か会ったことがある。黒髪の、物柔らかな少女であった。顔立ちこそ並と云ったところだが、ドレスから見え隠れする白い肌や、扇子で口元を覆いながらの微笑みなど、いかにも深窓の令嬢と云った風情であったのを覚えている。
「しかも、せんだっての王宮教会の式典で、ご令嬢がクリフトを見初めたのだそうな。えらい熱の入れようで、伯爵としても娘可愛さになんとしてでも進めたい話と申しておりましたな」
ブライはのんびりと云う。何のことは無い、「噂を小耳に挟んだ」ような言い回しをしていたくせに、ちゃっかり伯爵本人の言質をとっているのである。そのうえで、アリーナには他人事のように云うのである。なんだか仲間はずれにされているようで、姫は軽く腹を立てた。
業腹を抱えながらアリーナは肉団子にフォークを突き立てる。金属と陶器がふれあい、カツンと音を立てた。
「何ですか姫さま、はしたのうござるぞ」
「五月蝿い」
いつもより幾分トゲのある口調で姫は云った。
ブライはそれ以上とがめず、話を続ける。
「まあ、あやつももうそろそろ23。身を固めてもおかしくはありませぬでなあ。ましてやお相手の家柄も上等、あやつの実家としても悪い話ではありますまい。確かにあやつの家柄は、優れた聖職者の家系ではございまするが、あくまで臣下の家柄。ただの坊主の家系から、貴族への仲間入りを果たせるのですからな」
まるっきり他人事のようにブライは云う。それも、まるでそのことが喜ばしいことであるかのように。アリーナは益々不愉快になって、だんまりを決め込んだ。

クリフトの心地よいテノールの声が、小難しい学問のテキストを読み上げる。時折神官は手を止めて、曲線と直線で出来た図形を紙に書き込み、注釈を加える。古典的な経済の肝を図示するものだった。アリーナはクリフトの白い手がそれを描くのをぼんやりと眺めた。
「……姫さま?」
クリフトが訝しげに姫を見る。姫は我に返る。
「ごめんなさい、続けて。クリフト」
「休憩になさいますか?」
苦笑を含んだ声で神官は云う。その声音はあくまで優しく、彼女を慮っている。
クリフトの優しさに、アリーナは思わず甘えてしまう。
「……少し」
いたずらっぽい笑みに、神官は柔らかい笑みを浮かべながら頷く。
クリフトは優しい。とても、とても。
凪いだ海のように広く、穏やかに。
けれども、その優しさは深すぎて底が見えない。それこそが海のように。それがいずこからやってきて、いずこへ去って行くのか、姫にはまるでわからない。その果てがどこにあるのかも、彼女は知らない。もしかしたら、果ては無いのかもしれない。神に仕えるこの男は、まさしく神の慈悲のように、無尽蔵の優しさを持っているのかもしれない。公平に、誰に対してでも、それを注ぐのかもしれない。そう、伯爵の娘にも。
テキストにしおりを挟んで閉じた青年に、姫は云った。
「クリフトは黒髪の女の子が好きなの? あなたのお母さまみたいな?」
神官は鳩が豆鉄砲を食ったような顔つきで、動きを止めた。そして、姫に向き直った。
「……そのようなことを申し上げた覚えはございませんが」
「あなたに直接聞いたわけじゃないわ」
アリーナの声は拗ねと甘えを含んでいる。
「何者がそのような口さがないことを、姫さまに申し上げたのですか」
「じゃあ、やっぱり黒髪の女の子が好きなの?」
クリフトはため息をついて首を横に振った。
「わたくしは、女性の容姿について、とやかく申し上げることはございません」
「でも、黒髪の女の子のことが好きなんでしょう?」
姫はしつこく食い下がる。
青年は漸く合点がいったような顔をした。
「もしや姫さまは、わたくしにまつわる噂話をお耳に入れられたのでは?」
姫は唇を尖らせて沈黙する。肯定を示して。
ふたりの間に、さっと午後の陽光が差し込む。それはアリーナの鳶色の瞳を柘榴石ガーネットのきらめきに変え、彼女の赤銅色の頭髪を燃え立たせた。可憐な鼻梁が日光を吸収して輝き、潤いを秘めた杏色の唇が誘惑を湛える。接吻をせがむ乙女のように、その唇は尖っている。ただし、彼女の不機嫌を添えて。
「そのお話でしたら、お断りいたしました。わたくしは未だ勉強中の身でございますので」
アリーナの瞳がくるりと動いて、クリフトの濃い緑色の瞳をとらえる。
たっぷり深呼吸を数回するくらいの時間、娘は青年を見つめた。
「本当?」
「ええ、本当です」
「勉強が終わったら、断らないの?」
「わたくしの勉学は終わるなどと云うことはございません。神のお教えには果てはありませんから」
沈黙が落ちた。
陽光だけがふたりの間に在り、それ以外には何もない。
「続けてちょうだい」
請われて、神官はテキストを開く。
神官は先ほど描いた図形に解説を加え始めた。クリフトの淡々とした、テノールの声がアリーナの鼓膜を揺らす。自らの目の前にある用紙には、二つの交わった曲線が描かれている。交点における好ましい作用を神官は語る。
アリーナは頷きながら聞いていたが、窓から降り注ぐ陽光の美しさにすぐに飽いた。
クリフトの顔を盗み見る。明るい日差しに照らされて、彼の黒髪は菫青石アイオライトのようにきらめいている。アリーナはこの色を気に入っていた。綺麗だと思う。その美しい黒髪を眺めているうちに、唐突に姫の胸に疑問が湧き上がった。
「それはそうと、あなたは黒髪の女性が好き? それとも、金髪?」
思ったままをアリーナは口にした。
「……おたわむれを仰いますな」
神官は口をへの字に曲げて、姫を見る。
「いいじゃない、そのくらい」
悪びれず姫は答える。クリフトはしばし黙っていた。やはりこう云う問いにお堅い彼は答えないか、とアリーナが話題を変えようと思い立ったとき、神官が口を開いた。
「敢えて申し上げるとするなら、……赤い髪の女性が好きです」
意図せずして回答が降ってきた。姫はきょとんとして神官を見つめた。若い神官の顔は少し硬直し、頬がかすかに上気している。アリーナは見てはいけないものを見てしまったような気がして、慌てて視線を逸らせた。その先に、己の赤い巻き毛が揺れていた。
アリーナの頬が一気に紅に染まる。
宮廷の梢が風に揺れる音が、部屋に満ちる。
窓際で姫の愛猫が、のんきに喉を鳴らした。
こういうとき、何を云えばいいんだろう。
姫は思った。
ねえミーちゃん、どうすればいいのかな。
姫は内心で猫に声をかける。けれども、勿論猫は優雅に伸びをするだけだ。猫にすら問いを発する自分が少し情けない。
クリフトが軽く咳払いをした。アリーナの心臓は跳ね上がった。
「続けてもよろしいですか、姫さま」
いつもどおりの声で神官が問う。彼の顔色もまたすっかりいつもどおり、白皙に戻っていた。
「う、うん」
アリーナが頷くと、クリフトは再び経済学の講義を始めた。
その声色にはぶれが無く、語る内容にも瑕疵は無い。
ふたり、世界中から取り残されたような気がしていたのに、そのくらいの沈黙だと思ったのに、彼にとってはそうではなかったのだろうか。
アリーナは内心の混乱を沈めようと、テキストに目を落とす。
長い、赤い髪がひとふさ、紙の上でうねっていた。
幻のような彼の言葉を思い出す。胸の中で転がしてみる。
もういちど、と請えば彼は、もういちど云ってくれるだろうか。
アリーナには全く自信が無い。ねえミーちゃん、どうすればいいと思う? 姫はまたもや、愛猫に心の中で語りかけたが、猫の姿は消えていた。ミーちゃんはもはや午睡をやめ、もっと居心地のよい場所を探して気ままな散歩に出かけてしまったようだった。
経済学の授業は進んでいる。
乙女心は上の空のまま。
アリーナはふと目線を上げ、窓の外を見た。ルーフを愛猫が軽やかに走り去る。
自分もあんなふうに自由だったらいいのに。
アリーナは思った。それか、そうでなければ、テキストが欲しい。人の心を読み解く教科書が。
勿論そんなものは無い。
しょうがないので、姫は気持ちを切り替えた。神官の優しいテノールが鼓膜をリズミカルに叩く。
その淡々とした声音が少し小憎らしくなって、アリーナは小さなため息をついた。

 


2009-10年ごろ個人サイトで初出。2021年5月pixivに移管。
6章後のお話です。