しかしながら真珠星が真南の空に、夜半前に輝くその頃は、古来より麦の春まきの季節であった。
麦が芽吹き、茎を天にむけすんなりと伸ばし、黄金の穂を豊満に揺らすようになるまで、農民たちは日々労働に精を出すことになる。
彼らの育て上げた食物を国の糧とする王室にとってもまた、その日は大事な日であった。サントハイム国教会を挙げて、麦の豊作を祈る。竜神の恩恵を乞い、天候の安定を願うのだ。
大司教を中心とした国教会の聖職者たちが大聖堂に一同に会する。王宮教会の司祭たちも、いつも城内で身につけている王宮教会の神官服ではなく、国教会の明るい緑色の法服を身にまとう。祭壇には豚や羊の丸焼きが捧げられ、季節の花が聖堂の中を飾り立てている。
楽士どもが厳かに神を讃える楽を奏でる中、大司教が祈りの言葉を捧げる。
アリーナは聖堂の最前列、父王の隣に座していた。もうすぐ21の歳を迎える、娘ざかりの姫の姿は衆目を集めた。いつもの綿の動きやすい服装ではなく、さすがに光沢のある絹のドレスを纏っている。萌え立つ草花を刺繍した濃い紫色のドレスは、ところどころに金糸の縫い取りがなされ、彼女の白い肌を際立たせていた。
頭蓋の上に収まる冠は王女を示すものでは無かった。数ヶ月前より、サントハイムの正当なる後嗣として立太子を済ませた彼女は、公式の場では常に王太子の冠を戴いていた。薔薇石英や紅玉髄を象嵌した華奢な王女の冠とは違い、それこそが王家の象徴である大ぶりの蒼石と真珠がちりばめられ、力強さを感じさせるハーフ・アーチを持つ雄雄しい冠であったが、凛としたアリーナにはよく似合っている。
アリーナの瞳は、老いてなお威厳を失くさぬ大司教でもなく、大理石から名工が生み出した荘厳な竜神の像でもなく、宮廷画家たちが数十年をかけて描いてきた宗教画でもないものを見ていた。
青年がまとう法服は、姫に懐かしい旅の日々を思い出させた。丈の長い神官用の旅装と、今日の法服の色はよく似ていた。首元からくるぶしまでをすっかり隠す禁欲的な雰囲気も同じであった。違うのは、旅装は縮絨で出来た簡素なものであったのに対して、法服は光沢のある絹で出来ており、離れたところからでも生地のうるわしい艶が見て取れることだった。
青年の背丈は周りの司祭たちより頭半分ほど大きかったので、その振る舞いは聖堂の中でもよく目立った。彼の──クリフトの立ち位置は、助祭という序列の所為で居並ぶ司祭たちの中でも隅のほうであると云うにも関わらず。
神に祈り聖句を捧げるクリフトを、アリーナはずっと見ていた。
それに対して、クリフトがアリーナに視線をやったのは、彼女が父王と共に大聖堂の中廊下を歩み、席に座したときのみであった。2人の視線は居並ぶ聖職者たちの間を縫って交錯したが、クリフトは会釈ひとつせずに視線を逸らした。
娘の心は少し傷ついていた。
否、大いに傷ついていた。
青年の一挙一動が、姫の心にとっては常に一大事であった。
大司教の朗朗とした声が竜神への聖句を唱え、やがて楽と共に終わる。祭壇の大きな蝋燭に火が灯された。蝋の焦げる匂いが、アリーナのところまで漂ってきた。
大司教を先頭に、聖職者たちが退出していく。年若いクリフトは列の最後尾にいた。聡明そうな横顔は仕事中のためか厳しく、目線は前方を見据えて動かない。いつも自分のそばで物柔らかな笑顔を浮かべている彼とは大違いだった。早く私の家庭教師に戻ってくれないかな。姫はそんなことを考え、軽く息をついた。
春麦の種まきが無事に終わると、国中のそこかしこで祭りが行われる。王宮の中も例外ではなく、豊作を祈念する式典のあとは、昨年収穫した麦で作った料理が皆に振舞われるのが通例だった。城の中には、パンの焼けた香ばしい香りが馥郁と漂っている。
アリーナは、父王と、サントハイムの重臣らとともに、会食の席についていた。
葡萄酒が振舞われ、座が温まる。皆がほろ酔いになり、本音が建前を乗り越えだした時分。話題はいきおい、本日の祭典のことになった。大臣のひとりが云う。
「しかし、大司教さまも、年を取られましたな」
「今年お幾つになられますかな」
「もう75の坂はとうに越えておいでじゃよ」
と、ブライ老が美髯を撫で付けながら云った。
「もう、引退されると云う噂をお聞きしたが」
「次の大司教は、どなたになるのかな」
国教会と王宮教会は、似て非なる組織だ。国教会の一機関として王宮教会がある。フレノールに、テンペに、教会があるように、サントハイム王家に教会がある、と云う表現が妥当だろう。ゆえに王宮教会は王家に寄り添うようにして在るが、国教会はそうではない。下手をすれば王家より力を持ってしまう可能性もある。
国教会と良好な関係を保つのは、まつりごとにとっては重要なこと。大臣たちはしばし黙った。王宮に対して好意的な、それでいて国教会の首長として相応しい人物を、彼らは頭の中で各々思い描く。
「陛下はどのようにお考えですか」
水を向けられ、黙って臣下たちの話を聞いていた王は、唇の端に皮肉な笑みを湛えた。
「この席で話すことでもなかろうよ。まあ、妥当な方が妥当な位置に収まられるのではないかな」
王の云い回しで、大臣たちは王が暗に望んでいる人物を知ることが出来た。国教会の中心に座す、王家にも友好的な、とある司教、なのであろう。
ブライが口を開く。
「ここ十数年、王家と国教会の関係はつかず離れず、と云ったところ。出来ますれば、もうすこし王家に近づけておきたいところですな」
「何か妙案をお持ちですか、老」
「国教会の重鎮は、みな各地の教区の司教長。ゆえに心は民に近い。彼らが己の教区の民に心寄せるように、王家に心寄せるものを国教会に送ることができ、彼が国教会内部で力を持てば、これ以上心強いものはなかろう」
「王宮教会の司教を、国教会に送り込む、と云ったような?」
「それではあからさま過ぎる。もっと駆け出しの人間を国教会に転属させたほうが、図式としては自然じゃ。たくらみごとは気長にやらねばな」
「適任者がいるので?」
「おいおい」 と、ブライは苦笑する。「酒の席での世迷いごとじゃ。そこまで考えてなぞおるものか。そもそもこれが妙案かどうかも、しらふに戻って吟味せねばならぬ。やりすぎては国教会の反発を招く」
「全くブライの云うとおりだ」
王が笑う。
「そなたたち、今日のような祝いの席でさえ悪巧みかと、アリーナが呆れておるぞ」
いきなり名前を呼ばれ、アリーナは驚いて王の顔を見た。
「そうであろう、な、アリーナ?」
「……そうね。酔っ払った爺やのアイデアは、昔っから意地悪すぎるのよ」
アリーナが答える。宴席がどっと、沸いた。
■
鐙に足をかけ、勢いをつけて鞍に跨る。アリーナの月毛の愛馬は、鼻を鳴らして主君を出迎えた。
「颶風号、ご機嫌ね」
姫は目を細めて愛馬のたてがみを撫でる。馬丁が相槌を打った。
「姫さまと遠乗りする日は、颶風号はいつも機嫌がいいんですよ」
「そうなの? そう云われれば、この子が機嫌が悪いのって、見たこと無いかも」
「颶風号は姫さまのことが好きなんです」
「わたしもおまえが大好きよ、颶風号」
アリーナはいっそうの親しみを込めて颶風号に語りかけた。颶風号が耳をぴくぴくと蠢かせ、視線を動かす。その先に、青鹿毛馬に跨ったクリフトの姿があった。
「姫さま、ご準備はよろしいですか」
「いつでもいいわ」
「今日はどちらまで参られますか?」
「サランの先の、岬まで」
「かしこまりました」
馬丁に馬を引かせながら、ふたりはそんな言葉を交わす。姫は臙脂のジャケットの下に白いズボンを履き、首元には濃紺のアスコットタイを身に着けていた。クリフトも同じような乗馬姿である。ただ、聖職者であることを示すストールを首に巻いていることだけがアリーナとは異なっていた。
週に一度ほど、アリーナはこうやって遠乗りに出かけることを許されている。と云うよりも、散々父王に交渉して勝ち取った権利と云ったほうが正しい。またぞろ旅心に火がつくのではないかと訝る王は、最初こそ難色を示していたが、「たかだか週に一度の乗馬さえ許してくれないのなら、また城を出て好き勝手にやってやる」と云うアリーナの言葉が本気であるのを察して、渋々許可をくれたのだった。
お供はその時々によって変わった。彼女と親しい軍人であることもあれば、若い執政官であることもあった。人数もまちまちだったし、行く先も姫の気分がその時ごとに決めた。今日はたまたま、クリフトを伴うことが出来たと云うわけだった。
城門を出たところで、馬丁と、門に控える衛兵が、恭しく膝をつく。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「ええ。颶風号、行くわよ」
姫は馬に声をかけ、軽くわき腹を蹴る。
それに応え、姫の愛馬──サントハイムでも一二を争う駿馬である──は、軽やかな駈歩で駆け始めた。クリフトもそれに続く。
砂埃を巻き上げ、2騎の優駿は街道を岬へと往く。道沿いの丘陵では牛や馬がのんびりと草を食み、農夫らが種を蒔き終えた麦畑や野菜畑を丹精込めて世話している。日光が彼らと主従に、その優しい掌を差し伸べた。
サランの砦を目の端にとらえながら、アリーナとクリフトは駆けた。
やがてゆるやかな上り坂を越え、道に大ぶりの石つぶてが混じり始めたころ、彼らは岬の突端へと至った。
大地は唐突に終わり、絶壁となって海へと落ち込んでいる。人の身ではもはや行くことは敵わない岩壁に海鳥たちが巣を作り、さかんに飛び交っていた。街道沿いの小川がささやかな滝となって、まるで乙女の涙のようにか細く、紺碧の波頭に向けて流れ込んでいる。
視線を海に転じれば、陽光を受けて無限にきらめく波はあくまで春ののびやかな表情を見せており、冬になれば鈍色の荒々しい拳を叩きつけてくるとは思えないほどだ。かなたの水平線は春霞に浸され、空と海は視界の果てで分かちがたく交じり合っていた。この海の果ては巨大な森林に覆われた大陸の東岸であるが、もちろんその姿は見えるよしもない。
アリーナは無言で海を眺めた。
クリフトはその傍らに馬を寄せ、やはり海を見やる。姫が無言のままなので、視線を彼女に移した。
アリーナの横顔がくっきりとした輪郭をともなって、青年のまなこを灼いた。整った鼻筋と、陽光を受け紅くきらめく瞳。風になぶられ揺れる髪はまるで咲き初めの花一華のようだ。憂いにも似た表情を湛える彼女の姿は、ただ凛として、荒野にすっくと生える白樺のようであった。
青年は視線で、姫の姿をなぞる。
気取られないように密やかに。
けれども、どうしようもない憧れをこめて。
「気持ち良い風」
姫が目を細めてひとりごちる。
「ええ」
クリフトはそう、相槌を打つ。
「海は本当に広いね。この海の果てをまた見てみたくなる」
「この岬の対岸は、滝の流れる洞窟のすこし北東あたりですね」
「あの洞窟はすごかったわね。地面の下にあんなに大きな滝があるなんて」
「皆さんと話をするのにも一苦労でしたね。本当に見事な瀑布でした」
「……楽しかったよね、今思えば」
アリーナが初めてクリフトの顔を正面から見た。
「はい」
クリフトは頷く。
旅が終わってからと云うもの、幾度も幾度もふたりは道中のことを語り合った。
思いがけず長く、過酷な旅だった。それにも関わらず、彼らは郷愁にも似た懐かしさを抱いているのである。それは、あの日々が彼らにとって、過去に帰属し始めていることの証左なのであろう。
「大変だったけど、ブライとクリフトがいてくれたから、楽しかった」
「もう一度旅立たれますか?」
笑みを込めてクリフトが問う。
いつもの姫であれば、やんちゃな表情で、「そうね、いつかまた抜け出してみせるわ」などとのたまうのが常であった。
彼はその言葉を口にするときのアリーナの顔が好きだった。いたずらっ子のような顔で、まるで「城を抜け出すなんて造作も無い」と云いたげに、彼女は笑う。クリフトが愛してやまない、アリーナの根幹のようなその表情を何度も何度も目にしたくて、クリフトは旅の話のたびにそうやって水を向けるのだった。
だが、今日のアリーナはクリフトが望んだその顔を見せてはくれなかった。
姫はふと、真顔になった。
青年は違和感を覚え、面食らう。
瞬きを数回くらいの、たっぷりとした時間が、ふたりの間に流れる。
アリーナが口を開いた。
「もし、もう一度わたしが、城を出て旅に出るって云ったら、あなたは着いて来てくれる?」
「……」
クリフトがその言葉の意味を解するのには、もうしばらくの時間が必要であった。
姫の視線にはいつもとは違う、切実な何かがあった。乙女に見据えられ、クリフトの頭の中の回線が火花を散らしかける。自分の中の堪えて堪えて押し込めている心が、彼女の言葉を、表情を、己の都合の良いように解釈しそうになるのを彼は必死で押しとどめた。
「……姫さまがお望みであれば、どちらへでも参ります」
つとめて軽い口調で、クリフトは答える。
「じゃあ、わたしが姫であるのを止めてお城を出るって云ったら? それでもクリフトは来てくれる?」
アリーナは重ねて問う。
それこそが青年が何年も望み、夢見ていることであった。
そんなことはあり得ないと解り、知り抜いていてなお、ひたらずにはいられない妄想の沼であった。
やめてください。クリフトは思う。そんな目で、そんな言葉を、云わないでください。
秘密の花園の閂に、鍵がこじ入れられてしまう。
「……滅相も無いことを仰いますな」
乾いた声で青年は諌める。臣下とはかくあるべき、と云ったふうに。
「姫さまはもう、姫さまではなく、王太子殿下にあらせられます。それは衣服のように簡単に脱ぎ着できる類のものではありませぬ」
姫の薔薇色の頬が翳った。陽の光が薄雲に遮られたのだった。
「冗談よ」
アリーナの声にも薄雲が差した。
青年はそれには気づかない。
内心の鼓動があまりに大きすぎたがゆえ。
「……帰ろう、クリフト」
アリーナが手綱を動かす。颶風号が主に応えて鼻先の向きを変えた。
「かしこまりました」
クリフトも応えて馬を操る。
「サランの辻まで、競争ね!」
云うなりアリーナは馬のわき腹を強めに蹴る。
颶風号はたてがみをぶるっと揺すると、高らかなひづめの音を上げ、斜面を駆け下り始めた。
「お、お待ちください、姫さま!」
クリフトは慌てて手綱を緩める。青鹿毛の牝馬は、颶風号に遅れまいと力強く駆け始めた。だが相手はサントハイムでも有数の駿馬。その距離はあっと云う間に広がってしまう。
姫の後姿を追いながら、クリフトは先ほどの姫の言葉を反芻する。
アリーナは近頃、彼の縁談に興味を示したり、彼の気持ちを深追いするようなことを、しばしば口にする。
だが青年はその言葉をつとめて話し半分以下として聞くようにしていた。なぜなら、彼の中の天秤は、彼女の言葉や気持ちを量ると云う点において、もう十数年も壊れたままだからだ。彼女の何気ない言葉に狂喜乱舞して、そのたびに打ちのめされるということを、彼は少年のころ自分でもあきれ返るほどに繰り返していたのだ。
友愛を恋愛と勘違いしてはならない。
少年が心に刻んだ戒めであった。
クリフトはその金言をもういちど、己の中の己に云い聞かせる。アリーナに焦がれてやまない、自分でも度し難い、まるで若獅子のように猛々しい己に対して。
サランの辻までクリフトの馬が主君の馬に追いつけるわけも無く、青鹿毛の馬がやや疲労した足取りでそこにたどり着いたころには、アリーナと颶風号はすっかり寛いだ様子でひとやすみをしている最中だった。
クリフトの馬もすこし休ませたあと、二つの馬影は並んで城へと向かった。
折りしも、夕方にかからんとする刻限。城門を潜り、下馬所で出迎える馬丁に馬を引き渡す。たてがみを撫ぜて颶風号を労っていたところに、アリーナも見知る長身の人影が姿を現した。
「ヨアキム」
「お帰りなさいませ、殿下。遠乗りはいかがでしたか」
人影が持つ知的な面差しは、姫に続いて下馬したクリフトに生き写しだ。
クリフトの父、ヨアキムであった。
「楽しかったわ」
アリーナが応えると、それは重畳、とヨアキムは慇懃に微笑んだ。そして、息子に向き直る。
「クリフト。王宮司教さまと、国教会の司教さまがたがそなたに話があるとのことだ。ほこりを落としたら、すぐに聖堂会議室まで来なさい」
「わたくしですか?」
「そうだ。急ぎなさい、私も呼ばれている」
「はい」
「私は先に行っている。姫さま、失礼いたします」
そう云って深々と礼をするなり、ヨアキムは王宮の中に姿を消した。
「何かしらね」
「今日、そのようなお話があるとは聞いていなかったのですが」
「早く行ったほうがいいんじゃない?」
「ええ。姫さま、このような場所で申し訳ございませんが、失礼いたします」
「うん。また遠乗りに行こうね」
「いつでも、おともつかまつります」
クリフトはアリーナの手を取って一礼すると、きびすを返して大聖堂の方へと向かった。
■
夕刻迫る聖堂会議室の壁は、くれないの陽光に染められてまるで紅葉燃え立つ山のような色合いであった。竜神、聖者、聖霊、尊いものたちのレリーフが朱色の陰影を浮かび上がらせている。樫の木の大きなテーブルに腰掛けた聖職者たちにも惜しみなく夕陽は注ぎ、彼らはまるで黄金の彫像の群れのようであった。彼らが首に巻くストールも夕陽を吸収し、玉虫のように様々な色相を帯びていた。
既にヨアキムは末席に座している。部屋のうちを見渡せば、国教会の重鎮ばかりが雁首をそろえている。各教区の司教長や枢機卿。青年の直接の上司である、王宮教会の司教。そしていちばん奥まった座には、サントハイムにおけるこの教団の最高権力者──大司教の顔も見える。
お歴々を前にして、青年はやや緊張した。何と云っても彼は、未だ駆け出しの助祭ふぜいに過ぎなかったがゆえ。
「かけなさい、クリフト」
王宮司教に声をかけられ、クリフトは深々と辞儀をして、椅子に浅く腰掛けた。
椅子は柔らかくクリフトの身体を受け止める。
「竜神の御名において、この集いが礼に始まり和を以って終わることをお祈り申し上げます」
大司教がそう祈りの言葉を発し、皆がそれに従う。
しばしの沈黙のあと、大司教の傍らの男──枢機卿が口を開いた。
「サントハイム王宮教会、クリフト・エーリャン・グルンデンで間違いは無いか」
「間違いございません」
「神の徒として、神の教えにそむく受け答えの無きように」
「心得ております」
このやりとりはほとんど慣例のようなものである。だが、青年は面食らった。このような正式な会議に顔を出したことなど、今まで数えるばかりしかない。
神官の資格を得るための口答試験と、助祭として王宮教会に任官することが決まって以来ではないだろうか。
青年の顔に浮かんだ戸惑いを感じたか、枢機卿の口調が丸みを帯びた。
「案ずるな。別に審問をするわけではない」
「あ、はい」
「先だって、ゴットサイドよりのご使者が参ったことはそなたも存じておろう」
「はい」
かの街は、彼らの教団の聖地中の聖地である。
世界中で起きた神の力による奇跡が文献となって山積し、神と人との交流の歴史も全てこの街に眠っている。
天におわすマスタードラゴンに最も近い地として、巡礼者はかの街が絶海の孤島にあると知られていてなお絶えず、どうせ死ぬならばゴットサイドで死にたいと願うものも多い。
「我が国も復興という段階は既に終えた。そろそろ国教会も通常の営みに戻れと、そういう仰せだ」
「はい」
クリフトは素直に頷く。
サントハイム城が事件の渦中にあったおり、硬直していたのは実際のところは行政だけで、民草はそれなりに過ごしていた。その行政も、地方に派遣されていた執政官が出来る限りの職務はこなしていたので、サントハイムの国営が元通りになるのにそんなに時間はかからなかったのは事実だ。
更に現王の一子アリーナが立太子を済ませたことで、じゅうぶんに国として機能していることの証明はなされたといえる。
「とは云え、先だっての事件は我々国教会に甚大な被害を齎している。わかるな」
「はい」
王宮の内部にある、サントハイム国教会書物庫、その秘中の秘。
様々な神の教えや、儀式、秘蹟、そういったものの書物は魔物たちによって散々に荒らされてしまっていた。
また、尊い神像や絵画も、ことごとく汚されていた。
その様子を見た大司教さまが一晩で十年も老け込んだ──と云うのは、口さがない者たちの笑い話であったが、実際それほどの文献が失われたと云うことに間違いは無い。
「そこでだ。クリフト。サントハイム国教会は、そなたに命ずる。聖地ゴットサイドに赴き、散逸した資料の複写を持ち帰ってまいれ。期限はなるべく早く。膨大な量ゆえ、時間はかかると思うが、時は一刻を争う」
クリフトは常緑樹の葉にも似た、濃い緑色の瞳を瞬いた。
「──わたくしが、でございますか」
「そうだ」
「ひとりで、ですか」
「そうだ。あまり人員を割くわけには行かぬのでな」
「恐れながら申し上げます。わたくしは王宮教会の助祭として、全うすべき任がございます。それはどなたかが代行すると云うことなのでしょうか」
「──ああ」
枢機卿は、云い忘れた、といったような顔をする。
「そなたはこの発令を以って、王宮教会への所属を解かれる。大司教さま直属の助祭として、ゴットサイド教区の大司教さまのもとに派遣されることになる」
クリフトは、枢機卿の傍らの大司教を見た。
彼が幼いころから大司教であった彼は、長い眉毛の奥の瞳を光らせる。
「クリフト・エーリャン」
「は、はい」
年老いてひび割れた、もの柔らかな声に呼ばわれ、青年は背筋を正す。
「そなたを派遣するのは、そなたに難題を押し付けたいがためではない。そなたに学んでもらいたいからです。学びなさい。神のために。サントハイムの民のために。あなたの仕える王宮のために」
断る理由は無かった。
「謹んで拝命いたします──神の御心のままに」
クリフトは深く頭を垂れた。彼の黒髪が夕陽を浴びて、深い紫色のベルベットのように艶を放った。
■
大変簡素な、それでいて有無を言わせぬ書状がサントハイム王のところに届いたのは、彼が夕食を終え私室でブライとチェスに興じている最中のことであった。
国教会からの書状である。クリフトの転属の知らせであった。
無論、王はそのことを予め知っていた。国教会側から「王宮教会の司祭ないし助祭を移籍させてはくれないか」との打診を受けたとき、「クリフトならば良い」と答えたのは他ならぬ彼本人であった。
それでもこうやって書状を送ってくるというのは、組織として仕方がないとはゆえ、面倒なことである。王は彼こそが組織の頂点に立つものでありながら、そんなことを思う。
書状を豪奢な文箱に戻してから、王はまた盤面を見た。形勢不利である。と云うよりも最早、彼の王駒はもはや風前の灯火であった。
「国教会からですかな」
眼前の老師が問う。
「ああ、そうだ」
「今頃クリフトめは泡を食って旅支度と云ったところですな」
「ああ」
王は盤上を睨みつけたまま答える。完全に詰んでいる。しかしながら王の負けん気盛んな気性が、彼に最後の最後まで足掻くように仕向けているようで、彼は未だ長考の最中である。
「後任は?」
「人手不足と云うから、要らんと云うてやった」
「さようでございますか」
王は盤上を観念したように眺め、深く溜息をついた。
「──駄目だ。儂の負けだ」
そう云って、王は投了する。
ブライは涼しい顔で手元の扇子を掴み、扇いだ。
「感想戦を、なさいますかな?」
「なに。30手目で僧侶を取られた、あの手がいかんのよ。感想戦をするまでもない」
王は苦々しい顔つきで云う。だが口調は、さっぱりしている。負けるまでは足掻くが、負けてしまえばあっさりしている。陰に篭ったところの無い好男子だ、とブライは思う。
「まあ、さておき国教会に貸し、ひとつだ。中々大きな貸しだ。あの秀才を持っていかせるからには、それなりの返礼はしてもらわねばならぬ」
「仰せのとおりでございます」
「アリーナのご機嫌取りが、大変だがな」
王は呟くように云った。
ブライは目を眇める。
だが、世の有為転変を見つめてきた老獪なる瞳にも、王の本心を見透かすことは出来なかった。
麦蒔きを終えたサントハイムの平野は、日照時間が日々上書きされるかのように延びていく。やがて、夏至の頃には一晩中薄明が続くほどにまでになる。
クリフトが居室に戻ると、そこには未だ太陽のぬくもりがあった。大気中の粒子が思い出したように昼の名残を窓越しに落とし込んでくる。黄昏は確実に訪れを遅らせるようになっていた。
紛れもなく、春だ。春が来ている。
未だ朝晩は寒く、時折は風が刃のような鋭さで人々を苛む。けれども、その日の長さは、まごうことなき春のものだった。
神官服を脱いで、綿の楽な部屋着に着替えた。まだすこし肌寒いので、母が編んだ羊毛のカーデガンを羽織る。
部屋の中はすっきりと片付いていた。書架に隙間が見られるのは、彼が旅の供として引き抜いた本が幾ばくかあるからで、床には大きな鞄が二つ転がっている。木枠となめし革を用いた如何にも頑丈そうなものである。
引継ぎと暇乞いに奔走して一日が終わった。
出立は明日。
家族がしばしの別れにと、晩餐を用意してくれるという。
準備が出来るまで──と、クリフトは少年の頃から使っている学習机の前に座った。
書物庫から失われた資料の目録に目を通す。
巷間に比較的出回っている類の聖典や聖人録は、国教会の書物庫に納めるに相応しい由来のものを譲り受けるだけで済みそうだった。だが、秘中の秘、とされる書物や、逆に禁書扱いを受けている書物は、やはり手で複写せざるを得ないだろう。その数はかなりの量にのぼった。
先方に援助を願い出ても、職務を遂行するには、数ヶ月はかかりそうだ。
ただ、そうは云っても、数ヶ月である。
春が終わり、夏を越え、秋が深まり、いよいよ冬が始まる頃には戻ってくる。
わたしは23歳になっている。
その程度の感覚である。
暇乞いに訪れた人々も、急なことだけには驚いていたが、「道中ご無事で」程度の挨拶をしか交わしていない。今生の別れなどでは無論無いし、名残惜しいというほどの期間でさえ、無い。
ただ、もう王宮内に日々馳せ参じることは出来なくなるかもしれない。クリフトの出向よりも、それを惜しむ人のほうが多かった。
国教会に転属したということは、とりもなおさずサントハイム国内のあらゆる教会へ派遣される可能性がある、と云うことを意味した。現に司祭や助祭たちは、組織の改変や異動によって転勤を繰り返す。学校の転校生としてやってくる子どもの親には聖職者が多かった。
それはクリフトも覚悟していた。
もとより、学校を出てすぐの新人が、王宮教会に所属できるということのほうが珍しいくらいである。彼の秀才ぶりを惜しんだサントハイム王の意向でそれが実現しただけで、地方の小さな教会から神官としての仕事を始める者のほうが多いのだ。青年は己があまりに恵まれた立場にいることを自覚していた。左遷、とは思わなかった。それで当然、と思っている。
ただ、と胸のしこりがうずく。
彼の脳裏で、赤銅色の巻き毛が揺れる。
当分のあいだ、端近に仕えることは出来ないだろう。
苦しい、と呻く己の声がある。
それでよい、と囁く己の声もある。
(──アリーナさま。……)
コツ。
学習机の前の窓が不自然な音を立てた。
不図、顔を上げる。
コツ。
小さな石つぶてが、ぶつけられている。
こんな時間に何処の悪戯小僧だろう。
クリフトは立ち上がって窓を開け──彼の部屋は屋敷の2階、南端にある──階下を見下ろした。
黄昏時は終わり、夜という鳳が翼を空中に広げている。
その鳳の巣の中に。
「姫さま」
紅猿子みたいな赤銅色の髪を持つ、王宮という豪奢な籠の中にいるはずの、そのひとが。
「どうして、ここに」
アリーナはクリフトの家を囲む石壁に立ち、彼を見上げている。
「──中に入れて」
アリーナは鋭い声で囁いた。
「お待ちを──」
「待たなくていい。そこ、どいていて」
「えっ?」
クリフトが面食らっていると、アリーナが跳んだ。
普通の人間には出せない跳躍力。
まるで小型の肉食獣のように彼女は跳ね、窓の桟にぶら下がる。
「姫さま!」
あとずさったクリフトが悲鳴じみた声をあげた。
窓枠の中に、夜空を背負ったアリーナが浮かび上がる。
次の瞬間、彼女はもうクリフトの部屋に立っていた。
見事な軽業であった。曲芸師とてこうは行くまい。
「……アリーナさま……」
クリフトは改めて彼女の名前を呼ばわった。
山吹色の簡素なドレスは旅の日々を思い起こさせる。豊かな巻き毛は首の後ろでひとつに括ってあり、名馬の尾のように背中に垂れていた。
「挨拶に来たの」
しれっ、と彼女は云った。
無論お忍びでやって来たのに決まっている。
だが、咎める気にはならなかった。
「準備をしているのね」
床に転がっている旅行鞄に目をやり、アリーナが云う。
「もうほぼ終わりです。明朝には出立いたしますので」
「船で行くの?」
「いえ」
クリフトは首を振る。
「ブライさまがルーラで飛ばしてくださるということです」
アリーナはかすかに頷き、彼の返答を聞いている。
「お茶を淹れさせます、客間へお越しいただけますか」
「ここでいい」
「しかし、ここはわたくしの私室です」
「いいの」
アリーナは頑なに首を横に振る。
クリフトは折れた。
「では、わたくしがお茶を淹れます」
「うん」
クリフトは学習机の傍らから椅子を運び、アリーナに勧めた。姫は素直に腰掛ける。
厨房へ向かい茶器と湯を用意した。使用人が運ぶと申し出たが、クリフトは断った。ふと思いついて、母が焼いたクッキーを数枚、磁器の小皿にうつした。階段を、廊下を、茶器がこすれあってかちゃかちゃと云う音とともに歩く。
ドアを開けると、アリーナは先ほどと変わらない様子だった。粗末とも云える服に身を包み、所在なげに足をぶらぶらさせている彼女は、まるで姫らしくない。クリフトと同じ年頃の、市井の娘のようである。
サントハイム人は茶を好む。誰も彼もが、茶の淹れ方には一家言あるくらいだ。主婦ふたりに茶会をさせるな、と云う格言じみた言葉まである。
「クリフトのお茶は美味しいね」
アリーナが云う。
「ありがとうございます」
「クッキーも美味しい」
「母が焼いたものです」
「あなたのお母さまの焼いたクッキーは、わたしの大好物だったわ」
姫は懐かしげに目を細めた。
幼い頃のふたりは、しばしばともにおやつを食べた。クリフトの母は時折ふたりに手作りの菓子を振舞ってくれることがあり、ふたりはそれを大変楽しみにしていた。美味しいね、美味しいね、と云い合いながら、クッキーやママレードを、それこそ「晩御飯が食べられなくなる」と叱られるまで食べていたものだ。
クリフトの表情も綻ぶ。
「母が喜びます」
「懐かしいね」
「そうですね」
「あの頃は、いっぱい一緒に遊んだね。いつでも一緒だった」
「光栄なことです」
「わたし、クリフトが来てくれるの、とても楽しみだった。──他にも遊び相手はいたけど、女の子たちはお人形遊びしかしてくれなかったから。クリフトは、一緒に虫を採ったり、鬼ごっこをしたり、してくれたから」
アリーナは手にしたカップを、学習机の上に戻した。
クリフトは相槌を打ちながら、その情景を思い出す。
お人形のように愛らしい姫が、「わたしと遊んでくれるの!」と満面の笑顔を浮かべてくれたその日から、思えば彼は姫のとりこになってしまったのかもしれなかった。ころころと変わる姫の表情は、さながら万華鏡のように彼を捉えて離さなかった。
あどけない姫はやがておてんばな少女となり、娘への階段を一足飛びに上がっていった。日に日に脱皮を繰り返すような姫の成長は、少年だったクリフトにはただまばゆかった。
「ずっと──、一緒にいてくれたね」
姫の手が空になったカップを持ち上げ、弄んでいる。
「わたしが無鉄砲だったときも。つらかったときも。さみしかったときも。ずっと、一緒にいてくれたね。でも、もういられないね」
クリフトは怪訝な顔を主君に向けた。
「なぜそのようなことを仰るのです」
「だって、そうじゃない」
「この度の派遣とて、たかだか半年程度のことです。戻ればまた、お仕え出来ます」
アリーナの表情が曇っている。
「だってあなたはもう、国教会の神官さまになってしまったじゃない」
「それはそうですが」
「戻ってきたって、お城にいられるとは限らないでしょう? 他の街の教会に派遣されることだってあるでしょう?」
姫の指摘は正しい。
「そうですね。けれども、わたくしはいつまでも姫さまの従者のつもりでおります。離れていても、忠義はいつも姫さまのおそばにあります」
台本を諳んじるようにクリフトは云った。
そう答えるより他はなかったから。
寂しいとも、後ろ髪引かれるとも、云うよしはなかった。
いつもどおりの、クリフトの答えのつもりだった。
いつもならば、姫は「そうね」と頷き、次の瞬間には笑顔を浮かべている。
だが、今日は違った。
姫の瞳が光った。
あ、あ、あ、とクリフトがそれに目を奪われている一瞬のあいだに、彼女の涙の堤防は決壊した。
青年は混乱する。
涙をおさめてもらわねば、と、クリフトはハンカチを取り出して差し出す。
「いらない」
アリーナはつっけんどんに答え、洟を啜りあげる。
「ですが」
「いらない」
「……」
宙に浮いたハンカチは、居心地悪そうに青年の膝の上に置かれた。
「そんな、歯の浮くような言葉、あなたはいつから云うようになったの」
姫が問うたその言葉は、クリフトの心をしたたかに打ち据えた。
それこそが、彼が十年近くも腐心してきた術だったゆえ。
言葉で心をねじ伏せ、閉じ込めて誤魔化す。
その努力が今、瓦解した。
「クリフトはわたしにいつも、うわべの言葉しか云わない。本当の気持ちを見せてくれない」
「そのようなことはありません」
「嘘つき」
アリーナの返答は鋭く、素早い。
そして正しい。
「昔は、本気で私に腹を立てたりしていたじゃない。私の顔も見たくない、って怒ったじゃない」
「それは子どもの時分の話です」
「でも、本当の気持ちを見せてくれたじゃない」
「今だって──」
「嘘、そんなの嘘。ばかにしないで。わたしだって子どもじゃないの」
アリーナの涙をたたえた瞳が、クリフトの瞳をまっすぐに見据えている。
灼かれてしまう。
クリフトは畏れた。
焦げたところから、心が綻びてしまう。
衒いのないその視線におびやかされ、青年は混乱する。
「いつ頃からか、わたしは、寂しかった。あなたの振る舞いには真心が篭っているのに、あなたの言葉はいつもうわべの言葉だったから」
「……」
「わたしに原因があるなら、直そうと思って、いっぱい考えた。でも、わからなかった。あなたの気持ちがいつもわからなかった」
姫の瞳からふたたび、破璃のかけらのような涙が落ちた。
クリフトは拳を強く握り締めた。
「わたし、悲しかった。あなたに嘘をつかれてるみたいで。つらかった」
クリフトの唇が開く。
「あなたの仰るとおり、わたくしは嘘をついています。つき続けています。ずっと。ずっと。気づかれていないと思っておりました。けれども、見抜かれてしまっていたようです。わたくしはとんだ道化者です」
「なぜ、そんなことを」
「聞かないでください──お願いです」
「でも」
クリフトは苦しげに眉をひそめる。
「お願いです」
「どうして。わたしは、本当のことが知りたい」
もう二度と傍に仕えてくれることはないかもしれない、と云う思いがいっそうアリーナを焦らせていた。
若さゆえの短絡だったが、それに姫は気づいていない。
いつしか疑問は詰問となり、姫は無意識に青年を追い詰めていた。
「云えません」
クリフトは、姫の視線から逃れようと目を逸らす。けれども、彼女がじっと自分を見つめているのがありありと解った。
睦言のように密やかな声音は、しかし睦みあいとは程遠いところにあった。痛々しさすら感じさせる声だった。若者と乙女は、相手を想うがゆえに心をこじ開けようとし、また想うがゆえに固く閉ざそうとしていた。
「どうして?」
姫の瞳から、みたびはらはらと涙が落ちる。こみ上げる感情を抑えきれないかのようにアリーナの声が高くなる。姫は早口で言葉を重ねる。
「わたしのことが、そんなに──嫌いなの? 嘘でもつかないとやってられないくらい? 付き合いきれない?」
「子どものようなことを仰られますな」
「でも、だって」
アリーナの頬が紅潮する。乙女は震えた。
「クリフトに嫌われたら、悲しいよ……」
青年は言葉を失う。
姫は項垂れた。
肩が震えている。
そのか細い肩が目に入ったとき、青年のうちの若獅子が、身を捩った。
我知らず腕に力を込める。
姫の身体はすっぽりと己の身体にくるまれてしまうほどに華奢だ。
鮮やかな体術を繰り出す四肢は、赤子のように熱い。
青年の鼻腔を、甘い香りがくすぐる。
姫は驚いて身をすくませる。
青年の腕は思ったよりも力強く、ひょろひょろと見える胸板は頑健だった。
教会に漂う香が、彼の体にも残っていた。
クリフトの心臓が激しく波打っている。
生まれて初めて抱きこまれた男の胸元は、ひどく温かかった。
「……失礼」
クリフトは姫から体を離した。
「今日はもうお城にお戻りください」
「どうして?」
「どうしてもです」
「誤魔化さないで」
「……皆が騒ぎます。姫さまはこのような場所にいてよい方ではありません」
「私を、いつも一段高いところに置かないで」
姫はクリフトの袖を掴んだ。
アリーナは云う。
「特別扱いしないで、ちゃんと、わたしを見て。わたしという人間と、話をして」
「……姫さま」
自分が目を閉じ耳をふさぎ、アリーナから逃げていたことを青年はやっと知った。
彼女と云う人間に向き合わず、己の心を守ることだけに躍起になっていた。
身分が違う、違いすぎる。そう云って敵わないと最初から諦め、それでも断ち切ることが出来ない恋心を甘やかしていた。
そしていつしか、彼女を理解しようとすることすら、やめていたのだった。
(わたしはなんと、愚かな──)
愚かな人間だったのだろう。
そしてあなたは。
アリーナの一途な気持ちが、痛かった。
しかし、クリフトは骨の髄まで、サントハイムの臣下であった。
彼の中に脈々と流れる貴種の営みが、喉元まで出かかる言葉を抑えた。クリフトは目の前の乙女の血を、畏れた。
顔面の中心に熱が集まり、鼻腔を緩ませる。
クリフトの瞳に涙が溜まった。
「──この不甲斐ない男を、お許しください」
かすれた声で彼は云う。
「姫さまのお望みは、わかりました。けれどもわたくしには出来ません。勇気が足りません」
「クリフト……」
「あなたさまに全てをお話しする、覚悟が出来ていません」
「……わたし、待ってる」
姫が云う。
「わたし、待ってる。あなたが勇気を出してくれるのを」
「……この先も、ずっとこのままかもしれません」
「待ってる……」
小鳥の雛のような、あえかな。
親鳥を待つような、必死な。
アリーナの涙声が、青年の胸を激しく締め付ける。
ランプすらともらない闇の中、青年と乙女はただ見つめあい、涙を流す。
時だけが残酷に、過ぎていく。
■
サントハイム王宮、アリーナの住まう棟に、王が姿を現したのは実にひさかたぶりのことである。
窮屈なしきたりが数多く埋もれる広大な王宮では、王の移動にすら煩雑な手続きを要した。自然、王は常に玉座にあり、目下のものが彼をおとなうことが多くなるのは当然と云えた。
供もつれず、父は気楽な様子でやってきた。女官頭にレース刺繍の手ほどきを、心底厭そうに受けていた姫は、まるでじゃれつく子犬のように父を歓待する。館のテラスに設えられているテーブルと椅子に、引っ張るようにして父を連れ出した。
ほどなく茶器と菓子が供され、お茶の時間が始まる。
話題は益体もない世間話が主であった。天候、農作物の出来具合、隣国からの噂、貴族たちの失敗談、などなど。
王が、不図話題を変えた。
「そなた、近頃はお忍びで散歩をしておらぬようだな」
事実である。
日々の武道の鍛錬こそ欠かさぬものの、姫は王宮の内外を出歩かないようになっている。
王が気を許せば、アリーナはすぐにお忍びで城を抜け出すのが常であった。それとなく監視の者をつけているが、最近「姫さまが、今しがたまたもお城の外へおいでになりました」と云う報告をとんと聞かない。
「なんとなく気が向かないの」
アリーナはこともなげに答える。
「実は今度、エンドールから新たな条約を結びにご使者がおいでになる」
王は話を切り出す。
「へえ」
「エンドール王の甥、カルバハル公爵が使節の長だ。そなた、見知らぬか」
「知らないわ」
「公爵はそなたをよくご存知であったぞ。武術大会のときにご覧になられたそうだ」
「知らないわ。そんなひと、いたかしら」
アリーナはエンドール王と王女モニカに相対したときのことを思い出す。だが、モニカの蒼白な顔色と王の沈鬱な表情が思い出されるばかりだ。
「まあよい。とにかく、公爵は馬術がご趣味だそうな。そなた、息抜きに遠乗りにご同道差し上げろ」
王の言葉に、アリーナは厭な予感がした。
こうやって貴族の男子と、意味も無く面会させられたことが何度かあった。それは姫もあずかり知らぬところで行われる見合いであり、そんな面会のあとには必ず父が苦りきった表情で「そなたのようなお転婆は願い下げだと云われてしまった」と小言交じりに云ってくるのが常であった。
「どうせまた、わたしのようなお転婆はお断りされてしまうんじゃないの」
アリーナが云う。
「公爵は武術大会でご覧になったそなたのことを誉めそやしておったぞ。“これからの時代のおなごは斯くあらねばならぬ”とな」
王が云い返す。
「お父さま」
アリーナは口調を改めて、父に向き直った。
「公爵どのの遠乗りにお付き合いするのは結構、けれどもそれが今までのようなお見合いであれば、お断りよ」
「何を云うか」
王は渋面を作る。
「そなたのようなお転婆でも良いと云うておるのに。今時珍しい心の広い御仁だぞ」
「お転婆、お転婆って、失礼しちゃうわ」
アリーナは腹を立てた。
「もし無理矢理つれてきたら、そいつの馬をわたしの颶風号でけちょんけちょんに懲らしめてやるから」
「何と云うことを申すか!」
父が血相を変える。
「本気よ」
アリーナの表情にいささかの稚気もないことを見て取り、父王は溜息をついた。
「……わかった。公爵どののお相手は他のものに任すとする。そなたに隣国との同盟をご破算にされるわけにはいかぬ」
「お見合いなんて、しないからね。誰を連れてきても、無駄よ」
「意中の男でもおるのか」
王が問う。彼の鳶色の瞳がしずかに、娘を見ている。
アリーナはその言葉に虚を突かれて、黙り込む。
「顔に書いてある。儂の勘はそなたの百倍鋭い」
アリーナは答えない。
王は懐から扇を取り出し、自らを扇いだ。
「何かを手に入れるには、乗り越えねばならぬ壁がある。手をこまねいていては、一生その壁は越えられぬ。ただ挑んだ者だけが、それを手に入れることが出来る“かもしれぬ”、と云う権利を手に入れるのだ。むろん、駄目な場合もあろう。だが、失敗を恐れていては、一生その場に立ち尽くすだけだ。その壁の高さもわからぬままに」
「何のことを云ってるの?」
「さて」
王はとぼけている。
女官頭が王の傍らに歩み寄り、午後の会議の時間が迫っていることを告げた。
「儂は行く。アリーナ、刺繍の続きをするがよい」
「今日はもうしないわ」
「そなたのぶかっこうなレースが出来上がるのを、楽しみにしておるぞ」
「何よ、ひどいこと云うのね」
王は笑いながらテラスを去った。
アリーナはその背中を見送り、再び椅子につく。
春風が彼女の巻き毛を優しくなでていく。
先ほどの、王の言葉を思い出す。
わたしには、手に入れたいものがある。たったひとつ。
あのひとも、きっと手に入れたいものを持っている。
「紙と、ペンを持ってきてくれる?」
姫は傍らの女官頭に云った。
「何に使われるのです?」
「手紙を書くの──うんと長い手紙を」
女官頭は心得て、下がった。
■
「クリフトからアリーナさまへ、36番目の手紙
ゴットサイドは日に日に秋の色を深めてきております。紅葉が山肌を染め、朝夕には乳白色の霧が立ち込めます。
井戸水は驚くほど冷たく、食卓には秋の作物が並びます。聖地のある島は今年は豊作だったようです。どの根菜も木の実も、とても美味しくいただいています。
サントハイムはこちらより北。もうそろそろ、山脈の頂上は雪化粧を始めているのではないかと思います。
今年の麦はいかがでしたでしょうか。そろそろ鰊も沿海にやってくる頃ですね。
サントハイムの秋の食卓が、変わらず豊かであることをお祈りしています。
半年に渡ってお勤めしてまいりました聖地での仕事も、もう終わります。
聖地にて復元した書物はもはや、サントハイムの優れた航海士たちに守られて、一足先にお城へと旅立っています。わたくしも事後の始末が終わり次第旅立つ予定です。折角ですので、船で戻ろうかと思っております。エンドールを経由して、サランの港に参ります。
おそらく、アリーナさまがこのお手紙を受け取られてから数日ののちには、お城へ到着いたすかと存じます。
書物を持ち帰るだけで仕事が終わりではありませんので、しばらくはまたお城に詰めることになろうかと思います。
おみやげをお持ちしますので、楽しみにしていてください。
季節柄、ご自愛ください。
あなたさまの忠実なる僕 」
羊皮紙につらつらと並べられた几帳面な文字を丹念に追う。
読み終えて、姫は立ち上がった。じっとしていられず、部屋を出てテラスに立つ。
底の見えない青空が広がる。ゴットサイドの方角からやってきた雲が、彼女の頭上を駆けていく。
(──帰ってくる)
アリーナは手紙を握り締め、空を見上げた。
体がふわふわと浮き立つようだった。
姫はもう一度、手紙に目を通す。
読み終えた姫は、今度はなにやら悄然とした面持ちで顔を上げた。
(でも、なんて普通の手紙だろう)
36通も、大陸を越えて手紙をやり取りしておいて、この淡白な内容はどうしたことだろう。ゴットサイドの秋景色など、正直アリーナにとってはどうでも良いことだ。彼の職務が無事終わったのは喜ばしいが、それすら瑣事に過ぎない。姫が聞きたいのは、仕事が終わってサントハイムに帰ることについての気持ちであり、長く隔たっていた自分への言葉である。
クリフトがどう感じているのかが知りたい。
出立の前の晩の掠めるような抱擁を思い出す。乙女の胸があやしく騒ぐ。
だが、確かに起こった出来事なのに、まるで幻のようである。
それが姫の眉間を曇らせている。
(でも、帰ってくる)
姫は自分にそう云い聞かせた。
大地の感触が確かに、足の裏にある。
船旅には慣れているが、やはり地面と云うものはいいものだ。青年はそう思う。
海はやはり人間にとっては異界なのだ。絶え間ない恵みを齎してくれるが、ひとたびその表層を潜り抜けてしまえば無間の闇が待つ。ひとはその掌で遊ぶことを許されているだけだ。
大地も勿論、侮れば報いを齎す存在である。ひとはただその片隅を耕し、樹を刈り取ることで永らえさせてもらっているに過ぎない。ではあるが、海と違うところがある。ひとの体をしかと受け止めてくれることだ。その差の分、クリフトは大地に立つことで安心を得られた。
まだ体が波にもてあそばれているような気がする。しかし、大地は紛れも無く在り、彼を支えてくれている。
旅行鞄を地面に置き、クリフトは軽く息をついた。
彼をなぶる風には磯の香りが混じっているが、高い空に漉され、冷たく乾いている。懐かしい故郷の風を、肺の腑いっぱいに吸い込んだ。
「神官さま、お荷物をお持ちしましょうか」
宿場の客引き男が、愛想良く話しかけてくる。
「いえ、結構。すぐ発ちますので」
それを丁重に断り、クリフトは鞄を持った。ずっしりと重い。
長旅で擦り切れた衣服や読み古した本などは、全て古道具屋に売ってきたのだが、それでも荷物を鞄に詰め込むのには相当な努力が必要だった。ゴットサイドで過ごした時間は思いのほかいろいろなものを彼に与えたようだった。
鞄どもを人間の手で運ぶのは、やや手に余った。
サランの質朴な街並みによく溶け込む、赤茶けた煉瓦づくりの教会。
樫の木で出来た重厚な扉を開ける。
聖堂では小間使いの少年が掃除をしていた。
「こんにちわ」
「こんにちわ」
声をかけると、朗らかな挨拶が返ってくる。
「国教会助祭のクリフトと申しますが、司祭さまはおられますか」
少年は可愛らしく顎を引き、聖堂の奥に姿を消した。ややあって、深紫のストールを身に着けた司祭が顔を出した。
「これはクリフトどの」
司祭は笑み崩れ、青年の手を握った。この司祭とは何度も顔を合わせたことがあり、生真面目なクリフトを買ってくれている。
「聖地でのお勤めは無事に終わったようですな」
「はい。神のご加護があったようです」
「そうでしょうとも。感謝いたしましょう、神に」
司祭は祈るしぐさをする。クリフトもそれに倣った。
「実は司祭さま、今着いた船で帰ってまいったのですが、城まで馬を貸していただけませんか」
「どうぞどうぞ。ちょうど、こちらの助祭をお城に使いにやったところです。帰りはその者に託していただければよろしい」
「かたじけない」
クリフトは頭を下げて教会を辞した。
小間使いの少年は気のつく性質だったようだ。厩舎に向かったときには、もう馬丁が栗毛馬に鞍を載せてくれていた。
「この馬は力があるからね。その鞄くらいどうってことないよ」
たっぷりと顎髭を蓄えた馬丁がうまい具合に荷物を馬の背に乗せる。
「ありがとうございます」
青年は礼を云って、街を出た。
街道沿いの牧草地は早くも枯れ草の色を呈していた。街道沿いの街路樹も、赤や黄色の葉を揺すり落としている。かなたに見える山脈は、その頂に白き冠をかぶっている。 出立したころ、サントハイムを覆っていたのはまだ始まったばかりの春であった。今は迫り来る冬を息を潜めて待ち構えている、そんな季節である。
空と大地の交わるあたりに、サントハイム城が端正な姿を現した。
(──帰ってきた)
さすがに、なんとも云えぬ感慨と、静かな昂奮が青年の心をざわつかせた。
懐かしい、親しみぶかい城。
(姫さまはお元気だろうか)
青年は愛しい娘の輪郭を胸中でなぞった。
馬が背負う鞄の中には、彼女から届いた手紙が束になって収められている。
文字を読むのも書くのもあまり好きではない彼女が、必死になって書いたのだろう。たどたどしい文章で、日々の暮らしの様子や季節の変わり目、王太子と云う新たな立場への新鮮な驚きや戸惑いなどがつづられていた。
それだけではなかった。
彼を慕わしく思う心が、言葉のはしばしからだだ漏れてくるかのように、雄弁に語られていた。
読んでいるこちらの胸が詰まりそうな、まっすぐな手紙たちだった。
(あのかたは、なんと可愛らしいかただろう)
クリフトは思わず、声に出してしまいそうになる。青年の血が、今にも体を破って飛び出しそうだった。
落ち着かねば、と青年が頬を軽くはたいたとき、街道の向こうから一騎の人馬がやってきた。
(ご婦人か)
馬上の影は華奢である。
草原の枯れ草のような、見事な月毛の馬を巧みに操っている。
宮中の名馬、颶風号によく似た毛並みである。
と、云うよりも。
(颶風号ではないか?)
クリフトは我が目を疑った。
だとすれば、騎乗しているのは、ひとりを置いてほかにない。
「アリーナさま!」
クリフトは思わず大声を出していた。
人影が、馬に襲歩を命じたようだ。今までの穏やかな走り方とは一転、砂煙を上げて馬は駆けてくる。
人馬の輪郭がくっきりとしてくる。それは間違いなく姫と愛馬であった。
クリフトは馬を下り、跪いた。
やがて鼻を鳴らしながら颶風号が止まる。
軽やかな足音がして、クリフトの眼前を人影が覆った。
「おかえり」
鈴蘭を鳴らしたような声が囁くように云った。
顔を上げる。
この数ヶ月、忘れようとも忘れられなかった娘が立っていた。
「立って、クリフト」
促されて青年は立ち上がった。姫を見下ろす。
乙女は隔たれていた間に、より一層美しくなっていた。
生来の端正さに気品のようなものが加わり、練られ、光を放つようだった。
衒いのない瞳が、彼を見つめた。
「元気そうね」
弾んだ声で、アリーナは云った。
「はい」
クリフトは芸も無く頷く。
「姫さまも、お元気そうで」
「元気よ。その馬は?」
「サランの教会にてお借りしました」
「そう」
「はい」
ふたりは言葉を失う。
視線は交わり、すぐ離れ、そしてまた交わり──幾度もそれを繰り返した。
街道はしずかである。農夫も、兵士も、不思議と通りかからない。
ただふたりのために、その道はまっすぐに通っているかのように見えた。
「……おみやげ、は?」
沈黙に耐えかねたかのように、アリーナがすこしおどけたような声で云った。
「えっ」
青年が戸惑ったような声を出す。
「手紙に書いててくれたじゃない。おみやげがあるって」
「──ああ」
クリフトは合点し、ついで頬を染めた。
「ここでお渡ししたほうがよろしゅうございますか」
「早く見たいなあ」
アリーナは無邪気に云う。
「そうですか」
クリフトは首を左右に傾け、肩をほぐした。
不審そうに見守る姫に、青年は改めて居住まいをただし、向き直る。
「じつは、おみやげは形のあるものではございません」
不思議なことを云う青年を、姫は見上げる。
青年の表情はいつも以上に緊張し、こわばっている。
「その、おみやげは──姫さまがお待ちになっているものです」
「えっ」
今度はアリーナが問い返すばんであった。
「お待ちになっている、と云うか……以前そう仰っておられて……今は、どうなのかはわたくしにはわかりかねますが」
「……今も」
アリーナが笑う。
「待ってるわ」
「姫さまがわたくしと、一対一で、本音でお話をされたがっていると云うことを、わたくしは聞き入れることが出来ませんでした」
「うん」
「何故だかおわかりになりますか?」
「わからないわ」
アリーナは首を横に振る。
「それは、わたくしにとってとても重たいことだからです」
「……」
「わたくしには、その勇気がありませんでした。ずっと、少年の頃から」
「そんなに昔から?」
「そうです」
青年は頷く。
「何と云うか、その本音と云うのは、許されることではないと思い込んでいたのです。事実、そうなのだと思います。けれども、姫さまが悲しんでおられるのを見て、わたくしは──考えました。あなたを悲しませてまで、黙っていることは出来ぬと」
青年は言葉を切る。
ふたりの間を、秋風が通り抜けていく。
姫はただ黙って、待っている。
「お心のうちを見せて話したいと、姫さまは仰ってくださいました」
「うん」
クリフトの頬に、旅の間に伸びた髪がかかる。
「ですから、わたくしも報いたいと思ったのです。それが、わたくしに出来る真心の示しだと思ったのです」
「うん」
「その──なぜ、わたくしがあなたに自分の心を隠していたかといえば」
「うん」
姫はクリフトを見て、相槌を打つ。
「つまり、その」
クリフトの顔が赤くなる。
「うん」
「…………」
青年の、普段ならば怜悧に立ち働く脳は、今ひどくぎこちない。
言葉がうまく出てこず、ともすれば自らの中から蒸発してしまいそうになる。
目の前の乙女を見つめる。
彼女の中の血を畏れる心が、蠢きだす。
(──云えない……)
青年の顔が歪んだ。
姫の手が、ひらりと青年の手を取った。
青年を励ますかのように。
がんばって、そんな声が聞こえたような気がした。
柘榴石の瞳。
少年の頃から憧れ続けていた瞳。
彼女と過ごした、彼女とともに在った時間が、クリフトのなかで渦巻き、奔流のように駆け巡る。
ただ、まっすぐな。
まっすぐなこころがそっと、クリフトに寄り添った。
「……好きです」
絞り出した声は、かすれていた。
青年は息を吸った。
「わたくしは、ずっとあなたさまをお慕いしていました。お傍に仕えて十余年、ずっと、ずっと」
嘘のように、言葉が出てくる。
「ですが、わたくしはただの神官に過ぎません。何を申し上げるわけにも行きません。その所為で、姫さまへの言葉や振る舞いが、ずいぶんぎこちなくなってしまいました」
鼻腔の奥に熱が溜まる。
青年は涙を堪える。
「ずいぶん、ご不快な思いをさせてしまいました。お許しください」
姫の頬が、薔薇色に染まっている。
「……もう一回」
「え?」
「もう一回、云って」
青年の手を握り締めたまま、姫が云う。
「……好きです」
「もう一回」
「お慕いしています」
「もう一回」
「大好きです」
「……わたしも」
云うなり、姫が手まりのように弾んで、青年の胸に飛び込んできた。
「わたしも、大好き」
出立の前の晩から。
もしかしたら、それより前から。
お互い、どこかでわかっていたことだったのかもしれない。
けれども、それを信じるには、ふたりには証拠も経験も足りなかった。言葉にしなくては伝わらないことが、あまりに多かった。
言葉にするために、ひどく時間がかかった。
何周も、何周も、遠回りを重ね、大げさなくらいの覚悟をした。
疎く、拙いふたりに、それは必要なことだったのだ。
アリーナの巻き毛から、日なたの匂いがする。
クリフトはその小さな体を抱きしめる。
「夢のようです」
耳元で囁いた。
「夢じゃないわ」
アリーナがもごもごと答えた。
「クリフト、ありがとう。わたしの気持ちにこたえて、本当のことを云ってくれてありがとう」
「いえ」
青年はかぶりを振る。
「姫さまに励ましていただかなければ、きっとまた逃げていたと思います」
「大好き。だいすき、クリフト」
「わたくしもです」
「ずっと一緒にいる。はなれない」
「……わたくしもです」
姫が顔を上げた。
その表情は、まるで今しがた咲いた花のようで。
また、満天に輝く星のようで。
青年を苛烈な嵐が襲った。
今このひとに触れなくては、心が乾いて死んでしまう。
言葉にすれば、そんな思いだったろうか。
青年の熱を込めた瞳が乙女をとらえんとした、そのとき。
いつの間にか、若者たちのそばで草を食んでいた山羊が、めえ、とのんきに鳴いた。
ふたりは驚いて体を離す。
人間どもの機敏な動きに驚いたか、山羊は剣呑な目で彼らをねめつけると、のっそりとその場を去っていった。
姫がくすり、と笑った。
青年も毒気を抜かれてしまった。しかたなく、云う。
「……姫さま、戻りましょう。お城へ」
「うん」
青年に支えられて、姫は再び馬上の人となった。
クリフトもあとに続く。
「行こう」
アリーナが云う。
「……はい」
青年は不図、少年の日に戻ったような感覚にとらわれた。
ただただ、愚直なほど一途に、少女を想っていたあのころに。
青年は云う。
あのころのように、曇りのない言葉を。
曇りのない、心で。
「どこまでも──おともいたします。アリーナさま」
美しい人。
かの人は、幼き日と変わらぬ笑顔を、クリフトに向けた。
2008-10年ごろ個人サイトに初出。2021年5月pixivに掲載。
以下は本サイトの更新報告ブログから。ややネタバレしております。
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今回のお話について。
クリアリ告白編なわけでございます。
わたくし、恋愛を始める終わらせるにあたって、グレーゾーンというものがどうにも嫌いでして。
「好きなら好きってビシッと言わんか! 付き合おうって言ってから付き合わんか!」
みたいな。
ちょっと子どもっぽいんですが。
そういうのもあって、やっぱり告白はせなあかんやろと。
彼らがグレーゾーン交際とか、ありえんだろと。
そう思っておったわけです。
で、サイトを始めて半年くらいしてから、おぼろげに浮かんできたものを今回、形にしました。
(それに向けて日々舵取りをしてきたつもりですが、正直、かなりの蛇行を繰り返していた気が。)
「美しい人」単体については、話のボリュームとかはほぼ予定通りでした。
わたしが彼らのたどたどしい恋を見ていて、思っていたこともそれなりに文章に込められたように思います。
ですが、まだ力不足だなあと実感することしきりでした。
もっとうまく書けるのでは、と何度も書き直しました。
でも、これが限界でした。
悔しさ半分、でも書けてよかったな、という気持ち半分です。
なんだか総括っぽい節回しですが、これからも彼らのおはなしは全然書く気満々なので、文章のほうはまあ、徐々に上達していこうと思います。すればね! したいな! したいよう!
今までけっこう型にハマった構成になってた気がするから、そういうのを工夫したりとか。何せ彼らもまだスタート地点にたったばかりですから! まだまだ書きます!
今後は、もう少し頭使って書こう。うん。これが目標。えっ??? そこ????
ともあれ、こうやってお話を描き続けられたのは、こんなつたないおはなしにも拍手やメッセージをくださった皆様のおかげです。
ありがとうございました!
心から感謝感謝です。
できれば、これからもよろしくお願いします。